先日、松尾剛次先生『葬式仏教の誕生―中世の仏教革命』(平凡社新書)を拝見していて、特に気になった箇所がある。それは、中世の律宗の遁世僧が行った巨大な墓石五輪塔建立について、理由を「弥勒下生に備えるため」と推定されていたことである。どういうことかといえば、以前、【『梁塵秘抄』に見える弥勒信仰について】という記事でも書いたことがあったが、要するに、56億7千万年後ともいわれる弥勒菩薩の下生、そして成道して三会の説法(龍華三会)を行う場合に、何としてもその説法を聞きたいと願う信仰を持つ人がいたということである。
これを、弥勒下生信仰という。同じ弥勒菩薩への信仰としては、今現在弥勒がいる兜率天に上天して、直接会うという「弥勒上生信仰」もあるが、こちらは条件がかなり厳しく、一般的には、下生信仰が用いられたという。これは、宗教的才能の違いを下に規定されているというよりも、もっと複雑な条件があるように思われる。先のリンク先にも挙げた通り、禅宗にもこの下生信仰の一端を受け持つ、摩訶迦葉尊者の金縷袈裟護持という伝承があって、端的に「鶏足山の勝躅」などともいわれる。
さて、何故、巨大な墓石五輪塔建立が弥勒信仰と重なるかといえば、松尾先生が説明されるところによって考えてみると、まずは、巨大な花崗岩は固く、これを用いることによって、56億7千万年後まで、ここに自分が埋葬されているということを如実に示す目的があったという。だからこそ、骨壺も鉄製などが選ばれているという。同時に当時の文献にも指摘されている、或る経典が関わっているらしい。
宝積経に云く、石塔を造る人は、七種の功徳を得る。一に千歳、瑠璃宝殿に生まれる。二に寿命長遠。三に那羅延力を得る。四に金剛不壊身。五に自在身。六に三明六通。七に弥勒四十九重宮に生まると云々。
『覚禅抄』
これは、鎌倉時代初期に成立した文献で、特に東密(真言宗の密教)に関する記述や図像が多数収録されていることで貴重である。現在は『大日本仏教全書』巻45〜51で見ることが可能なのだが、その中に以上の記述がある。石塔造立の功徳が語られ、多くの場合で、優れた力を得たり、永い寿命を得たりする。そして、最後に、弥勒が兜率天に構築している「四十九院」に生まれるという。この「四十九院」というと、あの行基菩薩などの業績にも出てくる(ただ、行基の場合、一説には薬師信仰だともいう)ので良く知られているが、これは、上生信仰である。
よって、石塔造立によって、まずは上生信仰の実現を願い、しかし、同時に、それが果たされなくても、下生する弥勒菩薩を待ち続けることが可能になるという二重の意味での弥勒信仰があったのだろう。
実際に、曹洞宗でも、中世の清規として貴重である『回向并式法』(尾崎正善先生翻刻、『曹洞宗宗学研究所紀要』第九号)に、石塔を中心に塔婆でもって四十九院を再現する方法が書かれている。
夫れ四十九院死之れ有り。亦た一院に四十九院有り、合して五百七十四万五千四百八十一院、都率天に有り。西明寺に在るなり。
立つる次第の事。
未申の角より順ニに方へ立つべし。東西ニ十五本を充て、後に十三本、前に六本、中間を穴けるべし、中央に石塔并びに七本塔婆、之れ有るべし。
牌の后には光明真言、亦は種々の文、随意なるべし、南面立つるべし、地形に随って立つるべきものなり。
訓読し、表現を改める
曹洞宗では、無論、流行した後では浄土信仰なども取り入れているけれども、松尾先生が指摘されている様に、専修念仏系教団が全国にて覇を唱える前の日本では、弥勒信仰が盛んであり、その意味で、曹洞宗では弥勒信仰も取り入れていたはずである。無論、現在信じるべきは釈迦牟尼仏であり、それは道元禅師も瑩山禅師も疑い無いところだが、贔屓目に見ることをしなければ、釈迦牟尼仏信仰が及ぶのは現在世(今生)のみであり、未来世(来生)はどうしようか?という話は当然に残り続ける。既に阿弥陀仏については、道元禅師が相当に嫌っていた(『弁道話』を前提にそうだとは思わない。『弁道話』は口業の修行の批判であり、思想的には『学道用心集』や『永平寺知事清規』などを典拠に、阿弥陀信仰批判をしていたというべきである)ために、曹洞宗では取り入れなかったものと思われる。
そこで、日本で盛んであり、また、安易に他力信仰に落ちない弥勒信仰は、来世への架け橋として用い易かったはずである。更に、迦葉尊者の勝躅、或いは禅宗に見える羅漢信仰(羅漢は、釈尊入滅後、弥勒が下生してくるまでに、正法を護持し続ける存在として帰依された)などもあって、実際の喪儀などに於いて、四十九院の塔婆などを用いたのであろう。この事例は、意外と近年まで続き、近代以降の儀軌書(『行持軌範』では無い、民間の出版社が刊行した『曹洞常用四分回向』など)に見えるのである。
そして、我々が今現在、墓石を立てて、中に骨壺に入れた遺骨を守るというのも、この弥勒信仰との関わりから再評価していくべきなのであろう。無論、意識的に行う事例は少ないと思う。だが、結果として現状、通常一般に、各曹洞宗寺院で檀信徒の喪儀を行う場合には、墓石を立て・・・という話になっているわけで、ここに、明確な来生以降への繋がりを模索するべきである。仏陀釈尊が、輪廻を説かなかったというのは、余りに一面的な見方であり、実際には説いている。というより、当時それを説くのが当たり前だったのであろう。だからこそ、「出家者」には、「輪廻を脱して、今の自分を“最後身”にせよ」と説いたのであるが、「在家者」には善業を行い上天するように説いた。
よって、この点からも、弥勒信仰との繋がりは悪い話では無い。道元禅師は、『用心集』で「他土往生」を批判するが、弥勒信仰は「他土往生」では無い。こういう1つ1つの説を繋いでいくことで、我々は両祖から今までに通底してきた様々な儀礼の掘り起こしと、その思想的体系を獲得できるはずである。まだまだ今後、参究されるべき事柄だといえよう。また、最近、散骨や樹木葬なども流行っているが、それらは積極的に却けてしまって良い。
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これを、弥勒下生信仰という。同じ弥勒菩薩への信仰としては、今現在弥勒がいる兜率天に上天して、直接会うという「弥勒上生信仰」もあるが、こちらは条件がかなり厳しく、一般的には、下生信仰が用いられたという。これは、宗教的才能の違いを下に規定されているというよりも、もっと複雑な条件があるように思われる。先のリンク先にも挙げた通り、禅宗にもこの下生信仰の一端を受け持つ、摩訶迦葉尊者の金縷袈裟護持という伝承があって、端的に「鶏足山の勝躅」などともいわれる。
さて、何故、巨大な墓石五輪塔建立が弥勒信仰と重なるかといえば、松尾先生が説明されるところによって考えてみると、まずは、巨大な花崗岩は固く、これを用いることによって、56億7千万年後まで、ここに自分が埋葬されているということを如実に示す目的があったという。だからこそ、骨壺も鉄製などが選ばれているという。同時に当時の文献にも指摘されている、或る経典が関わっているらしい。
宝積経に云く、石塔を造る人は、七種の功徳を得る。一に千歳、瑠璃宝殿に生まれる。二に寿命長遠。三に那羅延力を得る。四に金剛不壊身。五に自在身。六に三明六通。七に弥勒四十九重宮に生まると云々。
『覚禅抄』
これは、鎌倉時代初期に成立した文献で、特に東密(真言宗の密教)に関する記述や図像が多数収録されていることで貴重である。現在は『大日本仏教全書』巻45〜51で見ることが可能なのだが、その中に以上の記述がある。石塔造立の功徳が語られ、多くの場合で、優れた力を得たり、永い寿命を得たりする。そして、最後に、弥勒が兜率天に構築している「四十九院」に生まれるという。この「四十九院」というと、あの行基菩薩などの業績にも出てくる(ただ、行基の場合、一説には薬師信仰だともいう)ので良く知られているが、これは、上生信仰である。
よって、石塔造立によって、まずは上生信仰の実現を願い、しかし、同時に、それが果たされなくても、下生する弥勒菩薩を待ち続けることが可能になるという二重の意味での弥勒信仰があったのだろう。
実際に、曹洞宗でも、中世の清規として貴重である『回向并式法』(尾崎正善先生翻刻、『曹洞宗宗学研究所紀要』第九号)に、石塔を中心に塔婆でもって四十九院を再現する方法が書かれている。
夫れ四十九院死之れ有り。亦た一院に四十九院有り、合して五百七十四万五千四百八十一院、都率天に有り。西明寺に在るなり。
立つる次第の事。
未申の角より順ニに方へ立つべし。東西ニ十五本を充て、後に十三本、前に六本、中間を穴けるべし、中央に石塔并びに七本塔婆、之れ有るべし。
牌の后には光明真言、亦は種々の文、随意なるべし、南面立つるべし、地形に随って立つるべきものなり。
訓読し、表現を改める
曹洞宗では、無論、流行した後では浄土信仰なども取り入れているけれども、松尾先生が指摘されている様に、専修念仏系教団が全国にて覇を唱える前の日本では、弥勒信仰が盛んであり、その意味で、曹洞宗では弥勒信仰も取り入れていたはずである。無論、現在信じるべきは釈迦牟尼仏であり、それは道元禅師も瑩山禅師も疑い無いところだが、贔屓目に見ることをしなければ、釈迦牟尼仏信仰が及ぶのは現在世(今生)のみであり、未来世(来生)はどうしようか?という話は当然に残り続ける。既に阿弥陀仏については、道元禅師が相当に嫌っていた(『弁道話』を前提にそうだとは思わない。『弁道話』は口業の修行の批判であり、思想的には『学道用心集』や『永平寺知事清規』などを典拠に、阿弥陀信仰批判をしていたというべきである)ために、曹洞宗では取り入れなかったものと思われる。
そこで、日本で盛んであり、また、安易に他力信仰に落ちない弥勒信仰は、来世への架け橋として用い易かったはずである。更に、迦葉尊者の勝躅、或いは禅宗に見える羅漢信仰(羅漢は、釈尊入滅後、弥勒が下生してくるまでに、正法を護持し続ける存在として帰依された)などもあって、実際の喪儀などに於いて、四十九院の塔婆などを用いたのであろう。この事例は、意外と近年まで続き、近代以降の儀軌書(『行持軌範』では無い、民間の出版社が刊行した『曹洞常用四分回向』など)に見えるのである。
そして、我々が今現在、墓石を立てて、中に骨壺に入れた遺骨を守るというのも、この弥勒信仰との関わりから再評価していくべきなのであろう。無論、意識的に行う事例は少ないと思う。だが、結果として現状、通常一般に、各曹洞宗寺院で檀信徒の喪儀を行う場合には、墓石を立て・・・という話になっているわけで、ここに、明確な来生以降への繋がりを模索するべきである。仏陀釈尊が、輪廻を説かなかったというのは、余りに一面的な見方であり、実際には説いている。というより、当時それを説くのが当たり前だったのであろう。だからこそ、「出家者」には、「輪廻を脱して、今の自分を“最後身”にせよ」と説いたのであるが、「在家者」には善業を行い上天するように説いた。
よって、この点からも、弥勒信仰との繋がりは悪い話では無い。道元禅師は、『用心集』で「他土往生」を批判するが、弥勒信仰は「他土往生」では無い。こういう1つ1つの説を繋いでいくことで、我々は両祖から今までに通底してきた様々な儀礼の掘り起こしと、その思想的体系を獲得できるはずである。まだまだ今後、参究されるべき事柄だといえよう。また、最近、散骨や樹木葬なども流行っているが、それらは積極的に却けてしまって良い。
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