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現代的「禅」分類

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昭和30年代の分類だから、ずいぶん古くなっていると思うが、ちょっと目に付いてしまったので、記事にしてみようと思う。先日、正力松太郎氏の坐禅体験を載せた『禅と念仏』(駒澤大学教化研究所編・1961年)というのを読んでいたら、増永霊鳳先生が「禅とは何ぞや」という一論を載せておられた。その中で、増永先生が当時の「欧米の禅」について、以下のような分類をしているので、採り上げてみたいと思う。

 欧米の禅は果して正しい方向を辿っているであろうか。私は必ずしも正しいものとは思わない。私は欧米の禅をビート禅、概念禅、格式禅、鈴木禅、格義禅、真正禅の六つに分類する。
 ビート禅は米国のビート・ゼネレーションや、英国のアングリ・ヤングメンの間に行われる禅である。彼らが因習や伝統を離れて自由に生き、人間価値の尊さにめざめ、故意でなく自然に帰ろうとして、禅にその範型を求めるのはよい。しかし彼等の言動にはエチケットがなく、節制を欠いている。
 概念禅は多数の禅籍から禅を概念的にとらえたものである。しかし、禅は概念ではない。けれども概念的にでも禅を正しくとらえれば、やがて深い理解に進み得るであろう。
 格式禅は禅を儀式や形式の上からとらえたものであって、師家の印可証明などをみせびらかして楽しんでいるものである。アメリカには案外これが多い。
 鈴木禅は、鈴木大拙博士の禅である。大拙居士が欧米へ禅を紹介された功績はすばらしい。しかし、博士の禅は公案(禅の課題)を通して悟りを求める禅である。これを強調しすぎると禅本来の頓悟直証を離れて階次的になり、梯子悟の禅となる恐れがあろう。
 格義禅は米国シンシナティ大学の教授エームス博士の取られたような方法による禅である。インドの仏教がシナへ伝えられた当時学者は老僧の思想で仏教の教理を解釈した。これを格義という。このようにエームス博士はアメリカのエマーソン、ウイリヤム・ゼームス、ゼファーソン、ソロー、デューイーなどの思想に禅的なものを求めつつ、禅を解釈して理解を助けておられる。勿論これもやがて転換を要するが、今の時代としては適切な方法と見てよいであろう。
 真正禅は正師の印可を受け、坐禅を実践し、日常生活にこれを生かす真実にして正確な禅である。しかも実践には深い思想的根拠を持ち、広い立場に立った禅で、いわば禅を越えた禅といってもよいであろう。私は道元や盤珪の禅にその範型を見る。しかし、欧米にはこうした禅はなおあまり知られていない。
    『禅と念仏』72〜73頁

この詳細な分析、或いは現状との比較については拙僧の能力を超えるので行わない。ただ、これらはそれぞれ、増永先生がご覧になってきた実態を示しながら、我々自身が陥りやすい迷路を示しているように見える。その意味では、昭和30年代の出来事であると同時に、今の我々にも当てはまることである。増永先生は、「欧米の禅」が正しい方向を辿っているか危惧されるけれども、実際には日本の我々も同様の問題を持っている。

ビート禅は、禅僧ぶって乱暴に振る舞うようなものだといえる。禅とは自由だ、とばかり考えているような者だ。しかし、その自由には「意図された破壊」、或いは「伝統や軌範からの離脱」ばかりが目に付く。本当に自由なのであれば、破壊だけではなくて創造、或いは保持も出来なくてはならない。例えば、或る制服着用が義務付けられている学校に入ったとき、「自由」を求めて、制服を否定したとしよう。確かにそれは、選択肢として「制服以外」というものが出来たけれども、しかし、同時に規定された制服を着けることもまた自由に選択されなければならない。よって、言葉遣いなどでも、好き勝手使って良いのだ、とばかり考えている者がいるが、本当に自由であれば、決まり切った言葉や敬語も“自由に”使えなければならない。自由と我が儘を混濁すれば、まさに天地懸隔であるといえよう。

概念禅は、往々にして研究者が陥りやすいといえよう。いうまでもないが、拙僧自身がこの状態にある。ただ、先の「ビート禅」の批判にも共通することだけれども、道元禅師が重んじられる言葉に「稽古」というのがある。古の禅僧の行いに習うことだ。ここには、概念的に正しく把握するという作業が必要となる。増永先生も、その後の禅の世界に入る段階として、概念禅は最低限の評価をしている。

格式禅は、今の日本にも多い。往々にして、出家者にも、或いは居士禅を模索するような者にも共通して見えることだ。「○○老師に就きました」或いは「●●老師に認められました」等々誇示する者がいるけれども、ハッキリいって臭い、既にその者には腐臭がしている。特に、「○○」「●●」に入る名前が、良く知られている場合であればあるほど尚更である。むしろ、名前が知られていない者の場合には、おそらく弟子の側は名前を出すまい。そして、それで良いのである。問題は、知られている場合も、同様にすべきだということだ。

鈴木禅は、いわゆる臨済式ということになろうが、それ自体は決して問題があるのではないと思う。しかし、公案が禅の修行に於いて役に立つと理解されている間は良いと思うのだが、かえって公案の通過自体が目的になり、そして、さもテストに通過するかのような感覚に陥らせているとすれば、甚だ問題だといえよう。しかも、或る種の明確な「成功体験(オレは考案に通ったんだ)」が残り続けることにより、増上慢の修行者を大量に産み出すことにもなりかねない。使い方は大いに注意されるべきものである。

格義禅は、大きく考えれば、禅を固有の文化として受容されていく過程で、必ず起きることである。しかも、一世を風靡してしまったりすると、後々本来の路線に修正するのが困難となるのが、何とも痛し痒しというところか。小さく考えれば、禅に触れた者が、それまで自分が学んできた知識や、会得してきた技術などに比して理解せんとすることともいえ、これもまた多いけれども、やはり格義のままで自解としてしまうと、後々の修正が困難である。よって、増永先生も、同様の修正を要するとしつつも、しかし、そこからしか入れないことを是認しておられる。

そして真正禅は、自ら正師から印可を受けたという「事実」、そして、今ここで坐禅をしている「事実」、その事実の積み重ねでのみその宗教性を担保する。だからこそ、余計な誇示や、軽薄な言葉など不要となり、ただ、日常を生きるだけである。そこには、経験に裏打ちされた日常の連続性と、その行為の連続によって生み出された信仰とが完全に融合している。完全に融合しているからこそ、改めて信仰を説く必要もない。或いは修行を説く必要もない。しかし、修行がないのではない。ただ奉行されているだけである。増永先生は、その理想を道元禅師や盤珪禅師を置いている。それが正統な評価か否かは、厳密に調べる必要があるが、それはこれまでの拙ブログの記事で、両禅師について採り上げたものをご参照いただければと思う。

とりあえず、以上のように、様々な禅を見てきた。冒頭に述べたように、これはただ、過去の海外の状況を示すものであろうか?いや、今であっても、分類は有効かもしれない。たまには、こういう分類を使って自らの修行の現状を確かめてみても良さそうだと思い、記事にした次第である。ただ、分類に把われると、本来仮構された定義に振り回されることになるので、ご注意願いたい。

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