道元禅師には何故か、この「枚」という数詞を使った説示が少なからず見えます。具体的には以下のような内容です。
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。
般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。
また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり。
また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。
また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。
また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。
また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり。
また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり。
また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻
・・・一体この「枚」って何なんだ?とりあえず、「般若」を数える際の単位になっていることは明らかですが、何故そうなるのか?よもや、あの「能」で使う「般若の面」を掛けているのではあるまいな?と思ったら、平家物語の時代に遡るとも、或いは般若坊という僧が作ったとか、諸説あるようで、いつ頃から存在しているのかは特定できないみたいですね。もっとも、能自体が、鎌倉時代後期から、平安時代初期に成立したと考えられているようなので、さすがに「般若の面」は無かったのでしょう。
で、仕方ないので『正法眼蔵』の註釈書などを見てみましたが、この箇所についてはほぼスルーの状況、そして、提唱録などを見てみると、『正法眼蔵全講』で岸澤惟安老師がこの「枚」について、「箇」であると仰っていました。確かに、幅広くて薄い物などを数える場合に使うので、「箇」はその通りだなぁ、とか思っていたら、このことは、ちゃんと中国語の古い辞書に書いてあるようです。それを岸澤老師はご存じだったのでしょう。
そこで、これで納得してしまったら、記事にしようとは思わなかったのですが、これだけでは、要するに何故、この箇所で「枚」を使ったかが説明できないということになります。よって、もう少し論を進めなければなりません。例えば、一般的に「枚」というのは、「金貨や銀貨、或いは薄く平たいものを数える助数詞」であるとされています。そうなると、道元禅師には智慧を、何か薄いモノと捉えるイメージがあったのかもしれません。更にいえば、これをいくら重ねても、厚みが増さないモノといって良いかもしれません。そこで、この問題を考える参考となるものとして、「枚」と考えるのに「画餅」や「尽大地」「尽虚空」などがあります。
・おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。
『正法眼蔵』「心不可得」巻
・尽大地・尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり。しかあれども、一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり。一にあらざれども異にあらず、異にあらざれども即にあらず、即にあらされども多にあらず。
『正法眼蔵』「全機」巻
他にも、何ヶ所かあるのですが、これを総じて見ていると、特に「全機」巻の方からは、この「枚」というのは、お互いに平面的に妨げることはなく、絶対であるとはいえ、立体的に見ていくと「重なる」というような事態を表現しているように見えます。そこから逆に「般若」を考えてみますと、例えば、四諦や六波羅蜜は、それぞれ一つ一つは意味するところが違っていますけれども、般若以外の何ものでもない、つまり、平面的にはそれぞれ独立になっているけれども、「般若」として重なり合うように見えるということになるでしょうか。そうなってみると、道元禅師の直弟子達が残した註釈の一節も納得が出来ます。
十二枚、十二入、十八枚等の般若とら被挙。般若の道理の方より見時は尤有其謂。
『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇
般若と、それぞれの個別の事象と、その見る向きによって違うことになります。このような視点の移動が指摘されているというのは興味深いところです。事実かどうかは別にして、視点の移動というのは、経験の拡大に寄与する場合があります。しかし、実際に経験が動かないと、ただやってみただけになってしまうので、注意が必要です。要は、色即是空・空即是色をどう考えるか、ということに帰着するわけですが、その両者を「枚」という言葉を媒介に、平面・立体という状況を使いながら、道元禅師は示したかったのではないかと申し上げ、この記事終わります。
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観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。
般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。
また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり。
また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。
また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。
また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。
また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり。
また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり。
また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻
・・・一体この「枚」って何なんだ?とりあえず、「般若」を数える際の単位になっていることは明らかですが、何故そうなるのか?よもや、あの「能」で使う「般若の面」を掛けているのではあるまいな?と思ったら、平家物語の時代に遡るとも、或いは般若坊という僧が作ったとか、諸説あるようで、いつ頃から存在しているのかは特定できないみたいですね。もっとも、能自体が、鎌倉時代後期から、平安時代初期に成立したと考えられているようなので、さすがに「般若の面」は無かったのでしょう。
で、仕方ないので『正法眼蔵』の註釈書などを見てみましたが、この箇所についてはほぼスルーの状況、そして、提唱録などを見てみると、『正法眼蔵全講』で岸澤惟安老師がこの「枚」について、「箇」であると仰っていました。確かに、幅広くて薄い物などを数える場合に使うので、「箇」はその通りだなぁ、とか思っていたら、このことは、ちゃんと中国語の古い辞書に書いてあるようです。それを岸澤老師はご存じだったのでしょう。
そこで、これで納得してしまったら、記事にしようとは思わなかったのですが、これだけでは、要するに何故、この箇所で「枚」を使ったかが説明できないということになります。よって、もう少し論を進めなければなりません。例えば、一般的に「枚」というのは、「金貨や銀貨、或いは薄く平たいものを数える助数詞」であるとされています。そうなると、道元禅師には智慧を、何か薄いモノと捉えるイメージがあったのかもしれません。更にいえば、これをいくら重ねても、厚みが増さないモノといって良いかもしれません。そこで、この問題を考える参考となるものとして、「枚」と考えるのに「画餅」や「尽大地」「尽虚空」などがあります。
・おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。
『正法眼蔵』「心不可得」巻
・尽大地・尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり。しかあれども、一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり。一にあらざれども異にあらず、異にあらざれども即にあらず、即にあらされども多にあらず。
『正法眼蔵』「全機」巻
他にも、何ヶ所かあるのですが、これを総じて見ていると、特に「全機」巻の方からは、この「枚」というのは、お互いに平面的に妨げることはなく、絶対であるとはいえ、立体的に見ていくと「重なる」というような事態を表現しているように見えます。そこから逆に「般若」を考えてみますと、例えば、四諦や六波羅蜜は、それぞれ一つ一つは意味するところが違っていますけれども、般若以外の何ものでもない、つまり、平面的にはそれぞれ独立になっているけれども、「般若」として重なり合うように見えるということになるでしょうか。そうなってみると、道元禅師の直弟子達が残した註釈の一節も納得が出来ます。
十二枚、十二入、十八枚等の般若とら被挙。般若の道理の方より見時は尤有其謂。
『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇
般若と、それぞれの個別の事象と、その見る向きによって違うことになります。このような視点の移動が指摘されているというのは興味深いところです。事実かどうかは別にして、視点の移動というのは、経験の拡大に寄与する場合があります。しかし、実際に経験が動かないと、ただやってみただけになってしまうので、注意が必要です。要は、色即是空・空即是色をどう考えるか、ということに帰着するわけですが、その両者を「枚」という言葉を媒介に、平面・立体という状況を使いながら、道元禅師は示したかったのではないかと申し上げ、この記事終わります。
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