日本の戦国時代、僧侶が自ら軍師・軍使となったり、外交を担ったりした例があるということは、その時代が好きな人ならよく御存知だと思います。織田家(徳川家)と武田家に滅ぼされた今川家の太原崇孚雪斎(1496〜1555)や、毛利家の安国寺恵瓊(1539?〜1600)、長宗我部家の滝本寺非有などが有名でしょう。しかし、仏教は基本的に殺生を禁止し、このような戦争協力については、否定されるべきでは無いか?と思う人もいることでしょう。その疑問に答えられるような戒が存在しています。
仏言く、仏子、利養悪心の為の故に、国の使命を通じ、軍陣に合会し、師(いくさ)を興して、相伐ち無量の衆生を殺すことを得ざれ。而も、菩薩は尚お、軍中に入りて往来することを得ず。況んや故ら(ことさ)に国の賊を成らんをや。若し、故らに作す者は、軽垢罪を犯す。
第十一通国使命戒
先に「第十軽戒」にて一度話を切って、新たに戒を説くという形を取りますので、ここで新たに「仏言く」となっています。内容としては、国の「使い」になってはならないという事です。『梵網経』にも、成立時期や場所には諸議論ありますけれども、少なくともこの誡が定められた頃に、外交官的な活動をした人がいたということです。そして、更に軍の陣に参加し(占いなどの能力もあったため)、自ら軍を発して、無量の衆生を殺してはならないといっています。僧侶自体が武将となり、軍隊を発した例が、どれほどあるのか拙僧も分かりません(例えば、武田信玄や上杉謙信などのような在家入道が武将・大名であったこともありますし、浄土真宗[一向宗]の僧が一向門徒軍の幹部であったようです)が、しかし、あったからこそ否定されているといえます。血の気が多かったというべきか?ただ、自ら大量殺人者集団である軍隊を起こすなんて事は、あってはならないことです。とはいえ、現代の正規戦では起こり得ないでしょうし、仏教徒のゲリラが少ないという事実も、この辺にあるのでしょう。
さて、本分では更に、菩薩は軍中に入って、往来してはならないと書かれていますが、『観音経』に「諍訟して官処を経 軍陣の中に怖畏せんに、彼の観音の力を念ぜば 衆の怨悉く退散せん」とあるということは、万が一軍陣に入ってしまったときの方法も書かれていることになります。そんな時でも、観音力で何とかなります。流石です。そして、ここでいわれる「国の賊」について、以下の記述があります。
本、慈に乖くを以て文に国賊と云う。七衆同じく犯し、大小倶に制す。
天台智?『菩薩戒義疏(下)』
智?はこのように、慈悲に背くからこそ、国にとっての賊といえるほどだと指摘します。そして、出家も出家したての者も、在家も皆この戒の適用を受けます。よって、菩薩たる者、軍事については常に否定しなくてはならないといえます。なお、更にこの戒について智?は次のようにも述べます。
利養悪心の為にとは、和合を簡除す。軍中に入る事を得ずとは、軍中喧雑にして、仏子所行の処に非ず。興師相伐とは殺心、慈に乖く。為すべからざる也。此の使命は相害の因縁を為す。故に制する也。
同上
このように、利養や悪心は、菩薩の第一義である和合を除くこととなり、軍中は騒々しいので仏弟子がいる場所では無いとされています(これは、仏教徒が「楽寂静」を実践するためです)。そして、当然に殺人のための軍を興すことは論外ですし、国の使命を果たしても、結局は人殺しの因縁を増やすだけですので、制せられているわけです。なお、道元禅師が次のようなことをいっています。
一には方邪、国の使命を通ずるを謂う。
二には維邪、医方卜相を謂う。
三には仰邪、星宿日月を仰観する術数等を謂う。
四には下邪、種々の植根五穀等を謂う。
『永平寺知事清規』「監院」項
これは、天台宗の荊溪湛然『止観輔行伝弘決』巻四之一から引用したものだと思われ、「四邪」といいます。同じく「五邪」もあるわけですが、これらは僧侶にとって「不当な利益」ということです。これらのことをして、利益(布施)を得ることは禁止されており、道元禅師は「所以は四邪五邪を食するの者、正見得難きなり」(同上)としています。そして、「方邪」に、「国の使命を通ずるを謂う」とあって、この第十一軽戒に相当する内容といえます。
道元禅師は端的に、これらのことによって食を得ても、正見を得ることが無いために、用いてはならないとしているのです。食べられれば良いという話では無いのです。どのようにして食べるか、という問題は、常に僧侶に問われているのです。こういう戒律があるとして、その上で何故、軍中に参じる僧が続出したのでしょうか?それは、大名家やその家臣の家から出家した僧が、主家への奉公のために軍師などになったということもあります。よって、色々と事情は勘案すべきですし、今はたまたまそれをしなくて良いという話でありますので、我々も時代の流れに依ったに過ぎない平和論を唱えるのでは無くて、真の意味での平和を求める努力をすべきだといえましょう。
なお、道元禅師の直弟子達は、この戒を次のように註釈します。
第十一、利養悪心の為に、故に国の使命を通じ、軍陣に合会し、兵を興して相伐すること尤も恐るべし。是も菩薩行心てせは持戒すべし。
経豪禅師『梵網経略抄』
やはり、菩薩行に契うかどうかの観点で、この戒の護持を求めています。我々も、菩薩行の観点からの平和論の確立が求められるところです。
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仏言く、仏子、利養悪心の為の故に、国の使命を通じ、軍陣に合会し、師(いくさ)を興して、相伐ち無量の衆生を殺すことを得ざれ。而も、菩薩は尚お、軍中に入りて往来することを得ず。況んや故ら(ことさ)に国の賊を成らんをや。若し、故らに作す者は、軽垢罪を犯す。
第十一通国使命戒
先に「第十軽戒」にて一度話を切って、新たに戒を説くという形を取りますので、ここで新たに「仏言く」となっています。内容としては、国の「使い」になってはならないという事です。『梵網経』にも、成立時期や場所には諸議論ありますけれども、少なくともこの誡が定められた頃に、外交官的な活動をした人がいたということです。そして、更に軍の陣に参加し(占いなどの能力もあったため)、自ら軍を発して、無量の衆生を殺してはならないといっています。僧侶自体が武将となり、軍隊を発した例が、どれほどあるのか拙僧も分かりません(例えば、武田信玄や上杉謙信などのような在家入道が武将・大名であったこともありますし、浄土真宗[一向宗]の僧が一向門徒軍の幹部であったようです)が、しかし、あったからこそ否定されているといえます。血の気が多かったというべきか?ただ、自ら大量殺人者集団である軍隊を起こすなんて事は、あってはならないことです。とはいえ、現代の正規戦では起こり得ないでしょうし、仏教徒のゲリラが少ないという事実も、この辺にあるのでしょう。
さて、本分では更に、菩薩は軍中に入って、往来してはならないと書かれていますが、『観音経』に「諍訟して官処を経 軍陣の中に怖畏せんに、彼の観音の力を念ぜば 衆の怨悉く退散せん」とあるということは、万が一軍陣に入ってしまったときの方法も書かれていることになります。そんな時でも、観音力で何とかなります。流石です。そして、ここでいわれる「国の賊」について、以下の記述があります。
本、慈に乖くを以て文に国賊と云う。七衆同じく犯し、大小倶に制す。
天台智?『菩薩戒義疏(下)』
智?はこのように、慈悲に背くからこそ、国にとっての賊といえるほどだと指摘します。そして、出家も出家したての者も、在家も皆この戒の適用を受けます。よって、菩薩たる者、軍事については常に否定しなくてはならないといえます。なお、更にこの戒について智?は次のようにも述べます。
利養悪心の為にとは、和合を簡除す。軍中に入る事を得ずとは、軍中喧雑にして、仏子所行の処に非ず。興師相伐とは殺心、慈に乖く。為すべからざる也。此の使命は相害の因縁を為す。故に制する也。
同上
このように、利養や悪心は、菩薩の第一義である和合を除くこととなり、軍中は騒々しいので仏弟子がいる場所では無いとされています(これは、仏教徒が「楽寂静」を実践するためです)。そして、当然に殺人のための軍を興すことは論外ですし、国の使命を果たしても、結局は人殺しの因縁を増やすだけですので、制せられているわけです。なお、道元禅師が次のようなことをいっています。
一には方邪、国の使命を通ずるを謂う。
二には維邪、医方卜相を謂う。
三には仰邪、星宿日月を仰観する術数等を謂う。
四には下邪、種々の植根五穀等を謂う。
『永平寺知事清規』「監院」項
これは、天台宗の荊溪湛然『止観輔行伝弘決』巻四之一から引用したものだと思われ、「四邪」といいます。同じく「五邪」もあるわけですが、これらは僧侶にとって「不当な利益」ということです。これらのことをして、利益(布施)を得ることは禁止されており、道元禅師は「所以は四邪五邪を食するの者、正見得難きなり」(同上)としています。そして、「方邪」に、「国の使命を通ずるを謂う」とあって、この第十一軽戒に相当する内容といえます。
道元禅師は端的に、これらのことによって食を得ても、正見を得ることが無いために、用いてはならないとしているのです。食べられれば良いという話では無いのです。どのようにして食べるか、という問題は、常に僧侶に問われているのです。こういう戒律があるとして、その上で何故、軍中に参じる僧が続出したのでしょうか?それは、大名家やその家臣の家から出家した僧が、主家への奉公のために軍師などになったということもあります。よって、色々と事情は勘案すべきですし、今はたまたまそれをしなくて良いという話でありますので、我々も時代の流れに依ったに過ぎない平和論を唱えるのでは無くて、真の意味での平和を求める努力をすべきだといえましょう。
なお、道元禅師の直弟子達は、この戒を次のように註釈します。
第十一、利養悪心の為に、故に国の使命を通じ、軍陣に合会し、兵を興して相伐すること尤も恐るべし。是も菩薩行心てせは持戒すべし。
経豪禅師『梵網経略抄』
やはり、菩薩行に契うかどうかの観点で、この戒の護持を求めています。我々も、菩薩行の観点からの平和論の確立が求められるところです。
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