今日は、永平寺二世・孤雲懐弉禅師(1198〜1280)が御遷化された日です。その伝記や、遷化される際の経緯などにつきましては、既に【今日は懐弉禅師忌(孤雲忌)】という記事で明らかにしたところでもありますので、その辺は今年は割愛し、後の多くの僧侶が、どのように懐弉禅師を尊崇し、讃歎したのかを明らかにしたいと思います。
その筆頭に挙げられるのは、前回の記事でも引用した、大本山總持寺御開山・瑩山紹瑾禅師であることは疑い無いところです。瑩山禅師は、晩年の懐弉禅師にお仕えして、「末後の小師」、つまり、最後の弟子となりました。よって、瑩山禅師は懐弉禅師のことを「先師(得度の師匠、受業師)」とお呼びするわけです。なお、『瑩山清規』ですと、瑩山禅師が親しく「先師」とお呼びするのは、大乗寺開山・徹通義介禅師になりますが、別の文献には以下のようにあります。
同廿四日、先師奘和尚月忌。
『洞谷記』
懐弉禅師は、1280年8月28日(旧暦)に御遷化されましたので、その月命日に供養されたのです。さて、今日は『洞谷記』に収録されている「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」から、懐弉禅師伝を見ていきたいと思います。
祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。
叡山にて剃染受戒し、諸宗の異学を捨て、多武峰・覚晏上人に参ず。四十六(三十六?)にして、見性の旧見を改め、しかも興聖寺より、参待すること永平寺に至る。
住持譲付二十年の際、一日とて師を離れず、影の形に従う如し、悟則は上に具なり。師、元老の室中に在りて、迦葉の釈尊、に仕えるが如く二祖の達磨に参ずるが如し。乃至、永平寺草創して、法を行うの始め、一切、師をして始めて行ぜしむ。
曰く、仏法の勤修、当山は勝地なり、吾が法、必ず汝に至って弘通すべし。法をして久しく住せしめること、是れ望みなり。遂に遺迹を継承して、蓋し門徒を覆い、道価、江湖に高く、児孫、山野に盈つる。大乗价和尚、参随して道化を助く。
〈中略〉
弘安〈庚辰〉八月廿四日、沐浴すること如常、遺嘱して云く、我れ、先師に於いて、生生に随逐するの願有り、遺骨、先師の塔の旁らの侍者位に安ずべし。
逝偈を書して曰く、
八十三年夢幻の如し、一生の罪犯、弥天を覆う、
而今の足下無絲去、虚空を踏翻して地泉に没す。
俗寿八十三、僧臘六十三。霊前の祭祀、十七日の際、顔貌生けるが如く、胸間尚お暖かなり。遺骨、遺命に任せて、塔無くして納む。
この記事を作る際に、従来「分かっていたつもり」になっていて、でもまだ分かっていなかった箇所がありました。それは、懐弉禅師が道元禅師に出会って、「正伝の仏法」を学ぶ学人になられたのが、結構「いい歳」になっていたということです。原文では、「四十六(歳)」とありますが、どう考えても、「三十六(歳)」或いは「三十七(歳)」であろうと思います。それは、同じ瑩山禅師『伝光録』第52章にて、「然るに元和尚、深草の極楽寺の傍らに初て草庵を結で一人居す。一人の訪らふなくして両歳を経しに、師(=懐弉禅師)即ち尋ね到る。時に文暦元年なり」とあるためで、「文暦二年(1235)」といえば、1198年生まれの懐弉禅師は38歳になっているからです。などなど、その詳細はともかく、懐弉禅師が30代後半で道元禅師の正式な門下に入られたという認識、やや拙僧には欠けていました。
また、それ以外の教えについては、だいたい従来の認識通りであるといえます。なお、「仏法の勤修、当山は勝地なり、吾が法、必ず汝に至って弘通すべし。法をして久しく住せしめること、是れ望みなり」の部分は、道元禅師の言葉とされています。道元禅師は年長者であったにも関わらず、懐弉禅師の長寿を信じられ、自分の正法の弘通を引き継いで、さらに衆生を救う道を開くように求めています。先の引用文とほぼ同じ内容が、『伝光録』にも見えます。
卒に宗風を相承してより後、尋常に元和尚、師を以て重くせらる。師をして永平の一切仏事を行はしむ。師、其故を問へば、和尚示して曰く、我命久しかるべからず。汝、我より久しくて決定我道を弘通すべし。故に我れ汝を法の為に重くす。
よって、これは、まず当時の門下にて語られていたことなのだろうと思います。無論、懐弉禅師が自らの寺院運営の円滑ならんことを願っていわれた言葉であると指摘したい人もいるかもしれませんが、拙僧はそうは考えません。現に、道元禅師は「侍者」という役職を大変に重んじられ、また先日述べたように、【随身について】も詳しくその意義を述べられています。その眼に契ったであろう懐弉禅師の行実から、道元禅師は懐弉禅師を後継者として任じられたといえましょう。
なお、元々達磨宗で、見性の宗義を学んでいた懐弉禅師が、道元禅師の下で改めて正伝の仏法を学び、大悟する機会となった経緯とは、以下の通りです(この経緯については、先に挙げた「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」の道元禅師章に書かれています。同書の構造は、或る祖師の大悟の機縁を、その師の項目に書くことで成立しています)。
一日請益するに、「一毫、衆穴を穿つ」の因縁を示す。
弉、聞いて大悟し、礼拝して云く「一毫は問わず、如何なるか是れ、衆穴」。
微笑して云く、穿ち了れり。
弉、礼拝す。
師、大いに悦び、法蔵を以て弉公に付す。鼓を鳴らして陞座し、立僧入室し、室中の領袖と為し、一会の教授と為す。
『洞谷記』
或る日、道元禅師は「一毫、衆穴を穿つ」の因縁を修行僧達に示されました。この因縁は元々、中国禅宗の石霜慶諸(807〜888、青原系の道吾円智の法嗣)という僧に対して、全明上座(伝不詳)という人が尋ねた言葉を元にしています。
石霜、因みに許州全明上座問う「一毫、衆穴を穿つ時如何」。
師曰く、「直須らく万年の後なるべし」。
曰く、「万年の後、如何」。
師曰く、「登科は汝が登科に任す、抜萃は汝が抜萃に任す」。
明、次に径山諲に問う。
諲曰く、「光靴は汝が光靴に任す、結果は汝が結果に任す」。
『真字正法眼蔵』上85則
この問答は、『宗門統要集』巻7、或いは『景徳伝燈録』巻11辺りを出典にしていますけれども、内容的には、冒頭の一句に集約されています。後は、その語句を会通していない全明上座に対する、他の禅僧の残念な感想といった感じになっています。では、冒頭の「一毫、衆穴を穿つ時如何」の真意とはどのようなものなのでしょうか?我々は、これを普通に考えれば、一本の繊毛を使って、無数の穴を空けるその「努力」を考えてしまいがちです。全明上座もそれは同様です。「1対多」という数の問題にしてしまうのです。
ところが、この本義とは、仏法に会通した人が、数の問題にとらわれないところを問うているわけで、一毫であろうと衆穴に通じることを明確に把握するところに、カギがあるのです。よって、そのことを分かっておらず、数の問題にとらわれていると判断された全明上座は、石霜から「直須らく万年の後なるべし」といわれます。これは、端的に「お前さんの考えているやり方じゃぁ、何万年かかっても無駄だろうね」という意味でいわれているのです。しかし、全明上座は、自分が正しい道を歩んでいると誤解し、師の言葉を受け損なって、「万年の後、如何」などと聞いてしまっています。つまり、「その後に道理があるわけですね」と確認しているわけですが、こんなのはただの「学解の僧」の見解に過ぎません。よって、石霜からは「好きに試験でも受けな」と、その「賢さ」を活かす道に進むように促され、径山諲(洪諲)からも、「光靴」、つまり役人が履きそうな綺麗な靴(行脚は草鞋で行い靴では行わない)を履くように突き放されているのです(この辺の詳細は、入矢義高氏監修『景徳伝燈録(四)』禅文化研究所、参照)。
さて、この見解を良く知っていたであろう懐弉禅師は、よって数の問題を脱却し、ただ無辺際なる仏法の事実に会通していく「衆穴」の法を問うたわけです。よって、道元禅師はその普遍への会通を確認し、「穿ち了れり」と印可証明しました。
このように、懐弉禅師は道元禅師の下で正伝の仏法を学び、大悟され、その後も侍者・随身としてお側にあって学ばれ、名実共に第一の後継者に登られました。そして、道元禅師の後を継いで、永平寺の運営を軌道に乗せるべく、長年ご尽力されたのです。弟子と見込んだ徹通義介禅師が、その後様々な問題に巻き込まれたことからいっても、懐弉禅師も決して安心しきった最期というわけではなかった可能性もありますが、しかし、後は自身の信念を通すだけ、道元禅師の遷化された8月28日に近い、8月24日に亡くなられたのです。その理由は上記リンク先である、昨年の記事で明らかにしたのでご覧下さい。
なお、拙僧は瑩山禅師が懐弉禅師を心から尊崇し、先師とまで呼んだにも関わらず、何故『瑩山清規』では、非常に簡略化された供養しか行っていないのか?と疑問に思ったことがありましたが、それも懐弉禅師の遺言に従ったからだと思い出し、一人安心したのでした。今日は拙僧も、懐弉禅師のおかげで、道元禅師の様々な教えに触れられることを喜び、その喜びを供養の心に変えて、心から合掌礼拝いたしたく存じます。南無仏陀耶、南無二祖国師。
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その筆頭に挙げられるのは、前回の記事でも引用した、大本山總持寺御開山・瑩山紹瑾禅師であることは疑い無いところです。瑩山禅師は、晩年の懐弉禅師にお仕えして、「末後の小師」、つまり、最後の弟子となりました。よって、瑩山禅師は懐弉禅師のことを「先師(得度の師匠、受業師)」とお呼びするわけです。なお、『瑩山清規』ですと、瑩山禅師が親しく「先師」とお呼びするのは、大乗寺開山・徹通義介禅師になりますが、別の文献には以下のようにあります。
同廿四日、先師奘和尚月忌。
『洞谷記』
懐弉禅師は、1280年8月28日(旧暦)に御遷化されましたので、その月命日に供養されたのです。さて、今日は『洞谷記』に収録されている「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」から、懐弉禅師伝を見ていきたいと思います。
祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。
叡山にて剃染受戒し、諸宗の異学を捨て、多武峰・覚晏上人に参ず。四十六(三十六?)にして、見性の旧見を改め、しかも興聖寺より、参待すること永平寺に至る。
住持譲付二十年の際、一日とて師を離れず、影の形に従う如し、悟則は上に具なり。師、元老の室中に在りて、迦葉の釈尊、に仕えるが如く二祖の達磨に参ずるが如し。乃至、永平寺草創して、法を行うの始め、一切、師をして始めて行ぜしむ。
曰く、仏法の勤修、当山は勝地なり、吾が法、必ず汝に至って弘通すべし。法をして久しく住せしめること、是れ望みなり。遂に遺迹を継承して、蓋し門徒を覆い、道価、江湖に高く、児孫、山野に盈つる。大乗价和尚、参随して道化を助く。
〈中略〉
弘安〈庚辰〉八月廿四日、沐浴すること如常、遺嘱して云く、我れ、先師に於いて、生生に随逐するの願有り、遺骨、先師の塔の旁らの侍者位に安ずべし。
逝偈を書して曰く、
八十三年夢幻の如し、一生の罪犯、弥天を覆う、
而今の足下無絲去、虚空を踏翻して地泉に没す。
俗寿八十三、僧臘六十三。霊前の祭祀、十七日の際、顔貌生けるが如く、胸間尚お暖かなり。遺骨、遺命に任せて、塔無くして納む。
この記事を作る際に、従来「分かっていたつもり」になっていて、でもまだ分かっていなかった箇所がありました。それは、懐弉禅師が道元禅師に出会って、「正伝の仏法」を学ぶ学人になられたのが、結構「いい歳」になっていたということです。原文では、「四十六(歳)」とありますが、どう考えても、「三十六(歳)」或いは「三十七(歳)」であろうと思います。それは、同じ瑩山禅師『伝光録』第52章にて、「然るに元和尚、深草の極楽寺の傍らに初て草庵を結で一人居す。一人の訪らふなくして両歳を経しに、師(=懐弉禅師)即ち尋ね到る。時に文暦元年なり」とあるためで、「文暦二年(1235)」といえば、1198年生まれの懐弉禅師は38歳になっているからです。などなど、その詳細はともかく、懐弉禅師が30代後半で道元禅師の正式な門下に入られたという認識、やや拙僧には欠けていました。
また、それ以外の教えについては、だいたい従来の認識通りであるといえます。なお、「仏法の勤修、当山は勝地なり、吾が法、必ず汝に至って弘通すべし。法をして久しく住せしめること、是れ望みなり」の部分は、道元禅師の言葉とされています。道元禅師は年長者であったにも関わらず、懐弉禅師の長寿を信じられ、自分の正法の弘通を引き継いで、さらに衆生を救う道を開くように求めています。先の引用文とほぼ同じ内容が、『伝光録』にも見えます。
卒に宗風を相承してより後、尋常に元和尚、師を以て重くせらる。師をして永平の一切仏事を行はしむ。師、其故を問へば、和尚示して曰く、我命久しかるべからず。汝、我より久しくて決定我道を弘通すべし。故に我れ汝を法の為に重くす。
よって、これは、まず当時の門下にて語られていたことなのだろうと思います。無論、懐弉禅師が自らの寺院運営の円滑ならんことを願っていわれた言葉であると指摘したい人もいるかもしれませんが、拙僧はそうは考えません。現に、道元禅師は「侍者」という役職を大変に重んじられ、また先日述べたように、【随身について】も詳しくその意義を述べられています。その眼に契ったであろう懐弉禅師の行実から、道元禅師は懐弉禅師を後継者として任じられたといえましょう。
なお、元々達磨宗で、見性の宗義を学んでいた懐弉禅師が、道元禅師の下で改めて正伝の仏法を学び、大悟する機会となった経緯とは、以下の通りです(この経緯については、先に挙げた「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」の道元禅師章に書かれています。同書の構造は、或る祖師の大悟の機縁を、その師の項目に書くことで成立しています)。
一日請益するに、「一毫、衆穴を穿つ」の因縁を示す。
弉、聞いて大悟し、礼拝して云く「一毫は問わず、如何なるか是れ、衆穴」。
微笑して云く、穿ち了れり。
弉、礼拝す。
師、大いに悦び、法蔵を以て弉公に付す。鼓を鳴らして陞座し、立僧入室し、室中の領袖と為し、一会の教授と為す。
『洞谷記』
或る日、道元禅師は「一毫、衆穴を穿つ」の因縁を修行僧達に示されました。この因縁は元々、中国禅宗の石霜慶諸(807〜888、青原系の道吾円智の法嗣)という僧に対して、全明上座(伝不詳)という人が尋ねた言葉を元にしています。
石霜、因みに許州全明上座問う「一毫、衆穴を穿つ時如何」。
師曰く、「直須らく万年の後なるべし」。
曰く、「万年の後、如何」。
師曰く、「登科は汝が登科に任す、抜萃は汝が抜萃に任す」。
明、次に径山諲に問う。
諲曰く、「光靴は汝が光靴に任す、結果は汝が結果に任す」。
『真字正法眼蔵』上85則
この問答は、『宗門統要集』巻7、或いは『景徳伝燈録』巻11辺りを出典にしていますけれども、内容的には、冒頭の一句に集約されています。後は、その語句を会通していない全明上座に対する、他の禅僧の残念な感想といった感じになっています。では、冒頭の「一毫、衆穴を穿つ時如何」の真意とはどのようなものなのでしょうか?我々は、これを普通に考えれば、一本の繊毛を使って、無数の穴を空けるその「努力」を考えてしまいがちです。全明上座もそれは同様です。「1対多」という数の問題にしてしまうのです。
ところが、この本義とは、仏法に会通した人が、数の問題にとらわれないところを問うているわけで、一毫であろうと衆穴に通じることを明確に把握するところに、カギがあるのです。よって、そのことを分かっておらず、数の問題にとらわれていると判断された全明上座は、石霜から「直須らく万年の後なるべし」といわれます。これは、端的に「お前さんの考えているやり方じゃぁ、何万年かかっても無駄だろうね」という意味でいわれているのです。しかし、全明上座は、自分が正しい道を歩んでいると誤解し、師の言葉を受け損なって、「万年の後、如何」などと聞いてしまっています。つまり、「その後に道理があるわけですね」と確認しているわけですが、こんなのはただの「学解の僧」の見解に過ぎません。よって、石霜からは「好きに試験でも受けな」と、その「賢さ」を活かす道に進むように促され、径山諲(洪諲)からも、「光靴」、つまり役人が履きそうな綺麗な靴(行脚は草鞋で行い靴では行わない)を履くように突き放されているのです(この辺の詳細は、入矢義高氏監修『景徳伝燈録(四)』禅文化研究所、参照)。
さて、この見解を良く知っていたであろう懐弉禅師は、よって数の問題を脱却し、ただ無辺際なる仏法の事実に会通していく「衆穴」の法を問うたわけです。よって、道元禅師はその普遍への会通を確認し、「穿ち了れり」と印可証明しました。
このように、懐弉禅師は道元禅師の下で正伝の仏法を学び、大悟され、その後も侍者・随身としてお側にあって学ばれ、名実共に第一の後継者に登られました。そして、道元禅師の後を継いで、永平寺の運営を軌道に乗せるべく、長年ご尽力されたのです。弟子と見込んだ徹通義介禅師が、その後様々な問題に巻き込まれたことからいっても、懐弉禅師も決して安心しきった最期というわけではなかった可能性もありますが、しかし、後は自身の信念を通すだけ、道元禅師の遷化された8月28日に近い、8月24日に亡くなられたのです。その理由は上記リンク先である、昨年の記事で明らかにしたのでご覧下さい。
なお、拙僧は瑩山禅師が懐弉禅師を心から尊崇し、先師とまで呼んだにも関わらず、何故『瑩山清規』では、非常に簡略化された供養しか行っていないのか?と疑問に思ったことがありましたが、それも懐弉禅師の遺言に従ったからだと思い出し、一人安心したのでした。今日は拙僧も、懐弉禅師のおかげで、道元禅師の様々な教えに触れられることを喜び、その喜びを供養の心に変えて、心から合掌礼拝いたしたく存じます。南無仏陀耶、南無二祖国師。
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