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無住道曉『沙石集』の紹介(12h)

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前回の【(12g)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。

 だからこそ、魔に捕らわれてしまうのは、まず、心が魔となり、仏に救済されるということは、まず心が仏になるのである。菩提心がつまりは仏ということである。驕慢の心はつまりは魔である。
 磁石は鉄を吸うけれども、曲がった針を吸い付けることまではしない。琥珀は塵を吸い付けるけれども、汚れた大きな塵までは取らない。薪を焚いても、木の中の火が起こってから外側に火が点く。生木は、遅れて火が燃える。もし、外側に火が点けば、どのような木も焼けて燃えるであろう。内にあること(仏性)を待って、外からの縁を待つべきでは無い。これをもって見るべきであるが、心から、よろずのことは起こって、外の縁も来るのである。そうであれば、実に、この世界を嫌い、本気で浄土を願う、このことが、仏による衆生への利益だと知るべきである。
 この世での望みを止め、将来に浄土へ行くための修行を勤めるとき、仏の来迎も頼りを得ることが出来る。世間の名利や、夢の中のことを望んでは、身の苦しさも憶えないようにして、明けにも暮れにも世間のことに奔走しながら、浄土菩提の功徳や善行はめんどくさく、手に念珠こそ持っているが、心は四方山のことだけを想って、道場に入って仏に向かえば、心では(仏を)厭だと想って、妻子や親戚のことを想い、悪知識と交際し、遊び戯れて時刻が過ぎることも知らないという、このような心のありよう、振る舞いで、定めて往生に行けるだろうとばかり妄信している人が多い。危うい当て推量だといえよう。
    拙僧ヘタレ訳

さて、前回の記事の続きになるのですが、我々自身が救われるか否かというのは、無住禅師によれば、他の存在の力というよりも、我々自身の「心持ち」が根底にあるようです。心持ちとは、この場合には心が仏のそれになることです。心が魔のように驕慢に満たされれば、当然に救われようも無く、仏のように素直になればその段階でかなり救われるのです。無住はその様子を、端的に「菩提心」と述べています。「菩提心」とは菩提を望む心であり、我々自身がまずは気合いを入れて、仏道を歩もうと願う心が根底にあって生まれる心です。

この菩提心がある時、我々は必ず心が仏のようになるのです。無住はその理由に「仏性(のようなもの)」を指摘しています。「仏性」とは、本来的に我々が仏道を得る「可能性」を意味しており(『正法眼蔵』「仏性」巻に於ける道元禅師の解釈はかなり独特ですが、『随聞記』には可能性としての「仏性」も見えます)、これを信じることで、我々は容易に仏道に到るのです。逆にこれが信じられないと、機構的に救済の側に荷重をかけて、それこそ阿弥陀仏の絶対他力、のような発想になります。かつて法然上人が、選択本願を打ち出した時、それは仏性への重度の不信感があったのです。仏性が有ろうがこの末法の世じゃ、どうしようも無いでしょ?という話です。

しかし、無住は仏性を信じるべきであり、いきなり外から仏道を得させてくれるような縁を待つべきでは無いとしています。要は、内への信仰があって、初めて外から来た縁に感応道交できるのです。この縁を元に、この娑婆世界(=忍土)を捨てて、浄土を欣求できるのです。「厭離穢土、欣求浄土」とは、かつて恵心僧都源信が『往生要集』の冒頭で説いた浄土へ向かう大前提といえるわけです。この世界で、僅かばかりの栄達を得たところで、何時かは散ってしまうわけで、その時、浄土を至心に願うべきなのです。そうすれば、仏の来迎を確実に得ることが出来ましょう。

我々はどうしても、この世界に於ける僅かな楽しみに心を奪われ、世間的な名利心の満足に気を配ります。しかし、それで果たして本気で浄土に行くことが出来るのでしょうか?従来の浄土仏教は、それは説かなかったのです。無論、凡夫をいたずらに否定することは無かったわけですが、しかし、一定の行や精神的な修養を要したのも事実です。でも、それが出来なくなると、結局は、先ほども述べたように、救済側に過重的な負荷を掛けて、何が何でも救ってくれるようにせねばならず、それが専修念仏になっていくわけです。無住は、その意味での専修念仏を徹底的に批判した1人でした。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

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