ミミズと仏性について本気で論じた中国禅宗の祖師がいる。そんな人のおかげで、後世、同じく禅僧なのに仏性を考えなくてはならない場合、参照されることで、ミミズが出てくる。やれやれ・・・
上堂に、挙す。
竺尚書、長沙に問う「蚯蚓、斬って両段と為る。未審、仏性、阿那箇頭にか在る」。
沙云く、「莫妄想」。
書云く、「動ずるを争奈せん」。
沙云く、「只だ風火、未散なるが為なり、乃至、痴人、喚んで本来人と作す」。
師、乃ち云く、無始劫来、生死の本、痴人、喚んで本来人と作す。途中に顛倒して更に流布す、大地山河、清浄身、と。
『永平広録』巻4-328上堂
先にちょっとした解説を付しておくけれども、この挙則だが、出典が『聯灯会要』、『宗門統要集』辺りだと思われるのだが、元々2つの問答であったのを、1つに合揉してしまっている。まず、「竺尚書」から「未散なるが為なり」で、1つ問答が終わる。それに「乃至、痴人、喚んで本来人と作す」については、同じ典拠ではあるが、「竺尚書の主人公」を問うた際に付された偈頌に見えるものである。ここから、道元禅師が「風火未散」なるを、いたずらに仏性とする風潮に、更に「本来人」まで追加して批判をしようとされたことが分かる。なお、『正法眼蔵』「仏性」巻でも、この前半部分の問答に対して提唱をされ、「無始劫来は、痴人おほく識神を認じて、仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり」とされた。よって、この段階で既に、両問答を合揉しようとしていたことや、或いは、仏性を主人公のように解釈する風潮への批判を持っておられたことが分かる。
なお、今回の本則はどういうことかというと、竺尚書が長沙景岑に対し、「ミミズを切って2つにしました。この時、仏性はどちらにあるのでしょう?」と聞いたわけである。長沙は「妄想するな」と答えている。尚書はそれでも「動いていることはどう理解すれば良いのでしょうか?」と聞いている。長沙は、「未だ(四大という我々自身の肉体を構成する元素の)風・火が散っていないだけだ」と答えたわけだ。道元禅師はそこに、「そして、愚か者は、(風火未散を)本来人と喚んでいる」とまで仰ったことにされた。
この一則は「仏性」についての話である。しかし、どうやらその辺りでかなり雑多な理解がされたらしい。それが、生死の本でしかない、これを「業」とでも言って良いのだが、それを「本来人(元々仏性を持ち悟れる人)」であると解釈したようなのである。更に、もっと顛倒して、「大地山河が、仏陀の清浄なる法身である」とまでしているという。これは、「渓声山色」巻に見える、蘇東坡の悟道偈「渓声便是広長舌、山色無非清浄身」にも通じていくが、道元禅師は後年、このような考え方について批判を寄せたことがある。
あるが云く、諸仏如来、ひろく法界を証するゆえに、微塵法界、みな諸仏の所証なり、しかあれば、依正二報ともに如来の所証となりぬるがゆえに、山河大地・日月星辰・四倒三毒、みな如来の所証なり、山河をみるは如来をみるなり、三毒四倒、仏法にあらずといふことなし、微塵をみるは、法界をみるにひとし、造次顛沛、みな三菩提なり、これを大解脱といふ、これを単伝直指の祖道となづく。かくのごとくいふ輩が、大宋国に稲麻竹葦のごとく、朝野に遍満せり。しかあれども、この輩、たれ人の児孫といふこと明らかならず、おほよそ仏祖の道をしらざるなり。
『正法眼蔵』「四禅比丘」巻
実際に、この批判に通じているのが、先の上堂だといえる。批判の目指す先は、明確に如来の知見と、凡見とを区別することである。よって、大地山河が清浄身であるという指摘に対しては、大地山河は大地山河であり、清浄身は清浄身だといいたいのである。よって、先の仏性論に転ずれば、仏性は仏性、ミミズはミミズ、風火は風火である。本来意味する機能が違うのに、即是即是で強引に結びつけていく状況が批判されているといえる。この上堂は、それを示そうとした内容といえよう。
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上堂に、挙す。
竺尚書、長沙に問う「蚯蚓、斬って両段と為る。未審、仏性、阿那箇頭にか在る」。
沙云く、「莫妄想」。
書云く、「動ずるを争奈せん」。
沙云く、「只だ風火、未散なるが為なり、乃至、痴人、喚んで本来人と作す」。
師、乃ち云く、無始劫来、生死の本、痴人、喚んで本来人と作す。途中に顛倒して更に流布す、大地山河、清浄身、と。
『永平広録』巻4-328上堂
先にちょっとした解説を付しておくけれども、この挙則だが、出典が『聯灯会要』、『宗門統要集』辺りだと思われるのだが、元々2つの問答であったのを、1つに合揉してしまっている。まず、「竺尚書」から「未散なるが為なり」で、1つ問答が終わる。それに「乃至、痴人、喚んで本来人と作す」については、同じ典拠ではあるが、「竺尚書の主人公」を問うた際に付された偈頌に見えるものである。ここから、道元禅師が「風火未散」なるを、いたずらに仏性とする風潮に、更に「本来人」まで追加して批判をしようとされたことが分かる。なお、『正法眼蔵』「仏性」巻でも、この前半部分の問答に対して提唱をされ、「無始劫来は、痴人おほく識神を認じて、仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり」とされた。よって、この段階で既に、両問答を合揉しようとしていたことや、或いは、仏性を主人公のように解釈する風潮への批判を持っておられたことが分かる。
なお、今回の本則はどういうことかというと、竺尚書が長沙景岑に対し、「ミミズを切って2つにしました。この時、仏性はどちらにあるのでしょう?」と聞いたわけである。長沙は「妄想するな」と答えている。尚書はそれでも「動いていることはどう理解すれば良いのでしょうか?」と聞いている。長沙は、「未だ(四大という我々自身の肉体を構成する元素の)風・火が散っていないだけだ」と答えたわけだ。道元禅師はそこに、「そして、愚か者は、(風火未散を)本来人と喚んでいる」とまで仰ったことにされた。
この一則は「仏性」についての話である。しかし、どうやらその辺りでかなり雑多な理解がされたらしい。それが、生死の本でしかない、これを「業」とでも言って良いのだが、それを「本来人(元々仏性を持ち悟れる人)」であると解釈したようなのである。更に、もっと顛倒して、「大地山河が、仏陀の清浄なる法身である」とまでしているという。これは、「渓声山色」巻に見える、蘇東坡の悟道偈「渓声便是広長舌、山色無非清浄身」にも通じていくが、道元禅師は後年、このような考え方について批判を寄せたことがある。
あるが云く、諸仏如来、ひろく法界を証するゆえに、微塵法界、みな諸仏の所証なり、しかあれば、依正二報ともに如来の所証となりぬるがゆえに、山河大地・日月星辰・四倒三毒、みな如来の所証なり、山河をみるは如来をみるなり、三毒四倒、仏法にあらずといふことなし、微塵をみるは、法界をみるにひとし、造次顛沛、みな三菩提なり、これを大解脱といふ、これを単伝直指の祖道となづく。かくのごとくいふ輩が、大宋国に稲麻竹葦のごとく、朝野に遍満せり。しかあれども、この輩、たれ人の児孫といふこと明らかならず、おほよそ仏祖の道をしらざるなり。
『正法眼蔵』「四禅比丘」巻
実際に、この批判に通じているのが、先の上堂だといえる。批判の目指す先は、明確に如来の知見と、凡見とを区別することである。よって、大地山河が清浄身であるという指摘に対しては、大地山河は大地山河であり、清浄身は清浄身だといいたいのである。よって、先の仏性論に転ずれば、仏性は仏性、ミミズはミミズ、風火は風火である。本来意味する機能が違うのに、即是即是で強引に結びつけていく状況が批判されているといえる。この上堂は、それを示そうとした内容といえよう。
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