この辺りの条文は、様々な内容の戒が混在しているところがあり、一々をしっかりと学んでいく必要があります。その内、「まぁ、この戒はそんなに重視しなくても大丈夫そう」という場合もあるのですが、「こいつは、とんでもない内容だから、絶対に守るようにしなくてはならない」と思わせる条もあります。
なんじ仏子、悪心を以ての故に事無きに他の良人・善人・法師・師僧・国王・貴人を謗じて七逆・十重を犯せりと言う。父母・兄弟・六親中に於いて、応に孝順心・慈悲心を生ずべし。而るを反って更に逆害を加えて、不如意処に堕しむれば軽垢罪を犯す。
第十三無根謗毀戒
まぁ、これは酷い戒です。内容としては、誰かが悪心を抱いて、良い人や仏教者、権力者などに対し、それを誹謗して、「七逆罪」を犯したと主張し、「十重禁戒」を犯したとして批判すると、それは問題があるというのです。確かにそうです。今の言葉でいえば、「冤罪」です。なお、七逆罪を犯したというと、「出家の資格」が失われ、仏教への縁が絶たれます。また、十重禁戒を犯したというと、波羅夷罪となり、菩薩の生命が失われます。
何故かといえば、菩薩とは、孝順心・慈悲心を発すべきであるのに、逆にありもしない罪を騒ぎ立ててしまうのは、その本懐に反するためです。なお、「不如意処」というのは、道元禅師の直弟子達に依れば「此不如意処とは悪道を云也」(経豪禅師『梵網経略抄』)とされており、結果的に悪道に堕ちてしまうようです。仏縁が失われているのですから、当たり前です。ただ、それが他人によってもたらされたとなれば、その誹謗した側にこそ、大きな罪がなくてはならないところです。
第十三謗毀戒は、前人を陥没し、慈を傷くるが故に制す。大小乗倶に制す。七衆同じく犯す。別しては天人已上の同じく菩薩戒有る者を取る。其の七逆・十重を説いて、或いは陥没し、或いは治罰すれば、有根・無根を問う事莫く、但だ異法の人に向かって説かしむれば、悉く重を犯す。前の説四衆過戒に已に制す。若し同法の人に向かって説けば、境の高下、有戒無戒を問う事莫く、人を陥没する者は、此戒に同じく軽垢を犯す。
天台智?『菩薩戒義疏(下)』
異法・同法という言い方をしていますが、場合によってはこれは「重戒」になるかもしれないのです。それは、「説四衆過戒」との齟齬です。これはつまり、菩薩戒を受けた仏教徒の過を説くことは、罪になるのです。これは、相手が悪であっても善であっても変わらないのです。誹謗そのものの罪が問われているのです。
実際に、いわゆる「声聞戒」と呼ばれる、仏陀の制定した戒の中にも、同じように相手を誹謗中傷して、罪を着せようとすることを諫める場合があります。人と人とが共同して修行する以上、もちろんこういうことは起こり得るでしょう。また、志を同じくして、仏道を修行しているのだから、こういう事はしないのが当たり前、というような「精神論」に流れるのも、仏道としては間違っています。
仏陀はその意味での「精神論」は説きません。もちろん、厳罰主義を説いているのでもありません。ただ、如何にして滞りなく修行を続けていけるかが問われているのです。そのために必要な戒が制定されているのです。なお、もしこのような「冤罪」を引き起こしたとすれば、それ自体、僧団に大きな混乱をもたらします。しかし、「七逆」に、「破羯磨転法輪僧」が入っていることからすれば、逆にこの冤罪こそが「七逆」であるといえます。それは、破羯磨転法輪僧とは、教団の和合を不正に崩壊させることだからです。
残念ながら、仏教の歴史を紐解いてみると、この戒の違反は数多く事例が存在しています。この背景には、もちろん戒を犯す側の「人間性の問題」が挙げられます。これは、善悪両面あって、悪の方から先に述べれば、単純に相手を陥れることが快感であるという場合があります。これなら話は早いです。しかし、善の方を述べるとなると、これは、何時の時代もそうですが、自らが正義の側に立っていないと不安になる人がいます。よって、常に悪を探そうとします。そして、スケープゴートを仕立て上げてしまうのです。そして、実際にはここで仮に「善」とした側の方が悪質です。何故ならば、自らが正しい事をしていると思い込んでいる場合、もう改めようが無いからです。改めようが無い正義、これが実は「極悪」なのです。「冤罪」とは、正義が極悪に転じる瞬間生み出されるのです。
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なんじ仏子、悪心を以ての故に事無きに他の良人・善人・法師・師僧・国王・貴人を謗じて七逆・十重を犯せりと言う。父母・兄弟・六親中に於いて、応に孝順心・慈悲心を生ずべし。而るを反って更に逆害を加えて、不如意処に堕しむれば軽垢罪を犯す。
第十三無根謗毀戒
まぁ、これは酷い戒です。内容としては、誰かが悪心を抱いて、良い人や仏教者、権力者などに対し、それを誹謗して、「七逆罪」を犯したと主張し、「十重禁戒」を犯したとして批判すると、それは問題があるというのです。確かにそうです。今の言葉でいえば、「冤罪」です。なお、七逆罪を犯したというと、「出家の資格」が失われ、仏教への縁が絶たれます。また、十重禁戒を犯したというと、波羅夷罪となり、菩薩の生命が失われます。
何故かといえば、菩薩とは、孝順心・慈悲心を発すべきであるのに、逆にありもしない罪を騒ぎ立ててしまうのは、その本懐に反するためです。なお、「不如意処」というのは、道元禅師の直弟子達に依れば「此不如意処とは悪道を云也」(経豪禅師『梵網経略抄』)とされており、結果的に悪道に堕ちてしまうようです。仏縁が失われているのですから、当たり前です。ただ、それが他人によってもたらされたとなれば、その誹謗した側にこそ、大きな罪がなくてはならないところです。
第十三謗毀戒は、前人を陥没し、慈を傷くるが故に制す。大小乗倶に制す。七衆同じく犯す。別しては天人已上の同じく菩薩戒有る者を取る。其の七逆・十重を説いて、或いは陥没し、或いは治罰すれば、有根・無根を問う事莫く、但だ異法の人に向かって説かしむれば、悉く重を犯す。前の説四衆過戒に已に制す。若し同法の人に向かって説けば、境の高下、有戒無戒を問う事莫く、人を陥没する者は、此戒に同じく軽垢を犯す。
天台智?『菩薩戒義疏(下)』
異法・同法という言い方をしていますが、場合によってはこれは「重戒」になるかもしれないのです。それは、「説四衆過戒」との齟齬です。これはつまり、菩薩戒を受けた仏教徒の過を説くことは、罪になるのです。これは、相手が悪であっても善であっても変わらないのです。誹謗そのものの罪が問われているのです。
実際に、いわゆる「声聞戒」と呼ばれる、仏陀の制定した戒の中にも、同じように相手を誹謗中傷して、罪を着せようとすることを諫める場合があります。人と人とが共同して修行する以上、もちろんこういうことは起こり得るでしょう。また、志を同じくして、仏道を修行しているのだから、こういう事はしないのが当たり前、というような「精神論」に流れるのも、仏道としては間違っています。
仏陀はその意味での「精神論」は説きません。もちろん、厳罰主義を説いているのでもありません。ただ、如何にして滞りなく修行を続けていけるかが問われているのです。そのために必要な戒が制定されているのです。なお、もしこのような「冤罪」を引き起こしたとすれば、それ自体、僧団に大きな混乱をもたらします。しかし、「七逆」に、「破羯磨転法輪僧」が入っていることからすれば、逆にこの冤罪こそが「七逆」であるといえます。それは、破羯磨転法輪僧とは、教団の和合を不正に崩壊させることだからです。
残念ながら、仏教の歴史を紐解いてみると、この戒の違反は数多く事例が存在しています。この背景には、もちろん戒を犯す側の「人間性の問題」が挙げられます。これは、善悪両面あって、悪の方から先に述べれば、単純に相手を陥れることが快感であるという場合があります。これなら話は早いです。しかし、善の方を述べるとなると、これは、何時の時代もそうですが、自らが正義の側に立っていないと不安になる人がいます。よって、常に悪を探そうとします。そして、スケープゴートを仕立て上げてしまうのです。そして、実際にはここで仮に「善」とした側の方が悪質です。何故ならば、自らが正しい事をしていると思い込んでいる場合、もう改めようが無いからです。改めようが無い正義、これが実は「極悪」なのです。「冤罪」とは、正義が極悪に転じる瞬間生み出されるのです。
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