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「和合衆」の雑考

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人が集まる時、基本的には「気が合う仲間」とともに集まりたいと思うのだろうが、しかし、仏教に於ける和合衆とは、そのような本人の感情面が前に出てしまって良いのだろうか?等といつも思っている。要するに、気が合うかどうか以前に和合しなくてはならないということである。

僧は、西天には僧伽と称す、震旦には和合衆と翻ず。かくのごとく称讃しきたれり。
    『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻

和合するといっても、出自も経歴も性格も全く違う僧達が集まるのだから、それはまとめるのは大変な話である。しかし、それでも和合するから、優れた集団だといえる。

僧伽、諸衆中の尊なるに帰依したてまつる。
    『正法眼蔵』「受戒」巻

ただ、まとめ上げていくための「基準」が、例えば世俗的な競争に置かれていなかったりすると、人はまだ和合できるのかもしれない。競争を前提にすると、やはり人は口では取り繕っても、優越感と劣等感との間に陥るものだ。だがいつも思うのだが、仏教というのは、誰かに先んじたり、誰かよりも優れていたりすることが、何か意味を持ったりするのだろうか?とどのつまり、自ら真実の道理に目覚めれば良いのであって、しかも、その時には、そういう誰かとの対比は意味が無い。結局、対比で悩んでいる人は、まだまだ修行半ばということであろうし、しかも、その対比で悩んでいるときには、修行が進むことは無いはずである。だからといって、どこまでもマイペースに修行を進めれば良いというのでも無い。限られた人生、限られた寿命の中で修行するのだから、急がなくてはならないというのも道理である。とはいえ、競争ではない。

競争では無いから、仏教教団には様々な人が入ってくる。

但、四河の海に入りて復た本の名無く、四姓出家すれば同じく釈氏と称す、の仏語を念ぜよ。
    『衆寮箴規

海は、どれほどに河から水が入ってきても受け入れてくれる。たまに、悟りが溢れて逆流することもあるようだが、それはさておいて、元の河の流れは違っていても、海に入ればただの水。この「ただの」というところが、結局は「和合」の源泉である。また、役職として、師家・堂頭・善知識とはなれど、それはその本人の優秀さなどを保証しない。ただの役職である。だからこそこういう教えもある。

いまは、しばらく賓主なりといえども、のちには、ながく仏祖なるべし。
    『重雲堂式

無論、師資の礼などを欠かして良いことにはならないので、そこには注意が必要だが、しかし、一時的な客と主人の関係は、後の永い仏祖としての人生に比べれば些末である。そのことは忘れてはならない。就く弟子の側もそうだが、教える指導者もそうである。だから、一時的な感情のもつれや、「ソリが合わない」とか、「生理的にダメ」だとか、そういう話でもって仏道修行を決めてしまっては良くないといえる。

でも、まだ出世間の仏道だから、こういう話も出来るけど、世間では大変だろう?とか思っていたら、こういう言葉があるらしい。

泰山はひとくれの土をすてないからこそ、あれだけの高さを保っている。
    『司馬遷史記』久米氏等編、徳間文庫

これは、秦の始皇帝に諫言をして左遷されそうになった丞相・李斯の言葉らしい。泰山というのは、始皇帝が封禅の儀式をしたことでも知られる名山だが、それを喩えに用いて、泰山は様々な砂や石、岩などを全て受け入れるからあれほどに高く大きいのであって、それと同じく、人もあらゆる人を受け入れなくては、大きくなれないという意味だそうである。いや、やっぱり大変だ。海は水の一部が無くなっても海だが、山は、一部が崩れれば全体が崩れてしまう。仏教にも山の高さを喩えに使う場合があるが、この李斯の喩えは、微妙な「世俗的権力の危うさ」を感じさせた。

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