今日7月5日は日本に臨済宗を伝えられた明庵栄西禅師(1141〜1215)のお亡くなりになった日です(旧暦では、ですけどね)。そこで、その遷化の状況について、いつも【連載記事】でお世話になっている臨済宗聖一派の無住道曉禅師が『沙石集』にて示しているので、今日はそれを読み、その忌日に相応しい記事にしてみようと思います。
さて、かの僧正(=栄西のこと)は、鎌倉の大臣殿(=源実朝のこと)に暇乞いをして、「京に上って、臨終したいと思います」と申した。(大臣殿は)「お年も召しておられますし、御上洛されるのも煩わしいのではないでしょうか。(この近辺の)どこででもご臨終されるのがよろしいのではないでしょうか」と仰ったが、(栄西は)「遁世聖を、世間では賤しい存在だと思っているので、行って京の童どもに(臨終を)見せようと思います」というと上洛して、6月30日の説戒には、「最後の説戒がある」といった。
7月4日には、明日臨終であると披露し、説戒も素晴らしく行われた。人々は、最後の遺戒だと思った。京の貴族から御使者があったが、客殿にてお返事申し上げ、やがて端坐したまま接せられた。弟子の僧達は、(このお返事などは)「意味の無い披露である」と思っていたが、同じ5日、安然として遷化された。皆が素晴らしいことだと褒めた。
『沙石集』巻10、拙僧ヘタレ訳
栄西禅師は、無住道曉の評価による限り「遁世聖」の地位向上を目指した僧だったということです。良く、栄西禅師が「大僧正」の位を得ようとしたことについて、名聞利養ではないか?と批判する人がいたようですが、無住はそれも、遁世聖のためであったとしています。確かに、栄西禅師という人は、自分が或る程度の地位を得た後であっても、地位などを求めようとしない聖達に、積極的に交わろうとしていた感があります。また、【自ら中国の禅林で修行した 我禅房俊芿(禅宗以前の禅僧達10)】でも明らかにしたように、新人のヘッドハントも積極的でした。また、優れた人材と会うためであれば、状況や外聞なども気にしなかったと伝わっています。
一例ですが、栂尾の明恵上人が、みすぼらしい格好で栄西の下に出掛けて行った時、栄西はたまたま朝廷からの帰りで、恐ろしく煌びやかな格好をしていたそうです。その姿を見た明恵は、こんな私に会ってくれるはずがないと思い引き返そうとしました。それに気づいた栄西は、すぐに人をやって呼び止めさせ、そしてすぐに法談に応じたとのことです。よって、純粋禅ではなかったとか、色々とマイナス面の評価を寄せる人がいるのも事実ですが(無住は、これについても「禅宗が流通する時期を待ったものだった」と評価する)、拙僧自身は、栄西禅師という人は、やはり鎌倉時代という新しい武士の時代の幕開けに相応しい禅者であったと判断しています。
よって、道元禅師も『正法眼蔵随聞記』の随所で、栄西禅師の徳風を讃え、また【今日は栄西禅師(千光禅師)忌です】の記事に見るように、「師翁」と呼び、永平寺に入られてからも、2度ほど供養のための上堂を行うなどしているのです。
拙僧、以前から栄西禅師が鎌倉から、わざわざ京都に行って遷化されたという話があると聞いていましたが、その詳しい出典までは気にしたことがありませんでした。しかし、先日から手元に置くようになった『沙石集』にそれがあったと知り、今回記事にした次第です。後は、虎関師錬『元亨釈書』辺りも参照すると良いのでしょうが、それはまた次回に取っておきたいと思います。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
さて、かの僧正(=栄西のこと)は、鎌倉の大臣殿(=源実朝のこと)に暇乞いをして、「京に上って、臨終したいと思います」と申した。(大臣殿は)「お年も召しておられますし、御上洛されるのも煩わしいのではないでしょうか。(この近辺の)どこででもご臨終されるのがよろしいのではないでしょうか」と仰ったが、(栄西は)「遁世聖を、世間では賤しい存在だと思っているので、行って京の童どもに(臨終を)見せようと思います」というと上洛して、6月30日の説戒には、「最後の説戒がある」といった。
7月4日には、明日臨終であると披露し、説戒も素晴らしく行われた。人々は、最後の遺戒だと思った。京の貴族から御使者があったが、客殿にてお返事申し上げ、やがて端坐したまま接せられた。弟子の僧達は、(このお返事などは)「意味の無い披露である」と思っていたが、同じ5日、安然として遷化された。皆が素晴らしいことだと褒めた。
『沙石集』巻10、拙僧ヘタレ訳
栄西禅師は、無住道曉の評価による限り「遁世聖」の地位向上を目指した僧だったということです。良く、栄西禅師が「大僧正」の位を得ようとしたことについて、名聞利養ではないか?と批判する人がいたようですが、無住はそれも、遁世聖のためであったとしています。確かに、栄西禅師という人は、自分が或る程度の地位を得た後であっても、地位などを求めようとしない聖達に、積極的に交わろうとしていた感があります。また、【自ら中国の禅林で修行した 我禅房俊芿(禅宗以前の禅僧達10)】でも明らかにしたように、新人のヘッドハントも積極的でした。また、優れた人材と会うためであれば、状況や外聞なども気にしなかったと伝わっています。
一例ですが、栂尾の明恵上人が、みすぼらしい格好で栄西の下に出掛けて行った時、栄西はたまたま朝廷からの帰りで、恐ろしく煌びやかな格好をしていたそうです。その姿を見た明恵は、こんな私に会ってくれるはずがないと思い引き返そうとしました。それに気づいた栄西は、すぐに人をやって呼び止めさせ、そしてすぐに法談に応じたとのことです。よって、純粋禅ではなかったとか、色々とマイナス面の評価を寄せる人がいるのも事実ですが(無住は、これについても「禅宗が流通する時期を待ったものだった」と評価する)、拙僧自身は、栄西禅師という人は、やはり鎌倉時代という新しい武士の時代の幕開けに相応しい禅者であったと判断しています。
よって、道元禅師も『正法眼蔵随聞記』の随所で、栄西禅師の徳風を讃え、また【今日は栄西禅師(千光禅師)忌です】の記事に見るように、「師翁」と呼び、永平寺に入られてからも、2度ほど供養のための上堂を行うなどしているのです。
拙僧、以前から栄西禅師が鎌倉から、わざわざ京都に行って遷化されたという話があると聞いていましたが、その詳しい出典までは気にしたことがありませんでした。しかし、先日から手元に置くようになった『沙石集』にそれがあったと知り、今回記事にした次第です。後は、虎関師錬『元亨釈書』辺りも参照すると良いのでしょうが、それはまた次回に取っておきたいと思います。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。