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Channel: つらつら日暮らし
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全ての人が握るものは?

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道元禅師も、最晩年はこういう言い方をしないようになるという印象ですが、まだ永平寺に入ってしばらくの間は、こういう言い方をしていたのです。

 上堂。
 人人尽く夜光の珠を握り、家家自ら荊山の璞を抱く。未だ廻光返照せずと雖も、若為が宝を懐いて郷に迷わん。
 道うことを見ずや、耳に応ずる時、空谷の神の如く、大小の音声、不足無し。眼に応ずる時、千日照の如く、万像、影質を逃るること能わず、と。
 若し声色の外辺従り求めれば、達磨の西来も、也、大屈なり。
    『永平広録』巻4-282上堂

端的にいえば、全ての人々、全ての存在には仏性が具わっているという話です。人々は「夜光の珠」を握っています。直訳すれば、夜になれば輝く珠ということになります。また「荊山の璞」が家家にあるとしていますが、これは中国の卞和の珠の故事で、磨けば素晴らしい玉になる素材を家々が持っているということです。

よって、道元禅師は未だ回光返照をせず、手にした宝の真実の耀きを得ているわけでは無いかもしれないが、それを持っていながら「宝を懐いて郷に迷わん」としています。これは元々『論語』に出る表現で、原意は優れた能力を持って、迷える人々の中に入ることを意味しますが、この場合はもっと直接的に、優れた素質を持っているのに、それを解き放たず迷ったままだという意味でありましょう。

では、それらの宝の真実の耀きが発せられる状況とは、どのようなことなのでしょうか。ここで、素晴らしき光が発するとでも思うのは間違えていて、実際のところは耳に音声を感じるときには、ただ不足無き状況であり、眼に映像を感じるときには、各々がその姿を保っているという位のことなのです。要するに、日常の感覚そのものだということです。これが、真実の耀きを発するという意味です。

しかしながら、これに気付かず、真実の耀きに何か素晴らしき特殊な現象を求める人はいます。ただ、この特殊な現象とは、声色の外にその真実を求めようとする心持ちと同じで、達磨がもし西から来たとしても誤りであった如くに、誤ったことだとされているわけです。端的に、今ここで観ぜられる諸法そのものが実相であることを承知しなくてはならない、つまりは、直下に承当することが肝心だということになります。

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