毎年、節句には努めて関連記事をアップするようにしていますが、9月9日の重陽の節句(菊の節句)に何を行うべきかは、既に【或る重陽の説法】で示しましたので、ご覧いただければ良いと思います。今日は、それを受けつつ、重陽について、道元禅師の文献に見えるものを見ていきたいと思います。
三間の茅屋清涼に足れり、鼻孔瞞じ難し秋菊香し、
鉄眼銅睛何ぞ潦倒せん、越州にして九度重陽を見ん。
『永平広録』巻10-偈頌108
道元禅師は、建長5年(1253)に御遷化されたわけですけれども、この内容からすれば、1252年に詠まれたものであると分かります。そもそも、今回引用した偈頌は、「山居の頌」として15首『永平広録』に収められている中の1つです。よって、永平寺にいる間に詠まれたものになるわけですが、「越州にて九度重陽を見ん」とあります。道元禅師が越前に移動されたのが、寛元元年(1243)7月になります。よって、その年から数えると、9回というのは、1243・1244・1245・1246・1247・1248・1249・1250・1251となりそうです。先ほど拙僧が述べた内容と1年齟齬が出ます。しかし、拙僧が勘違いしたわけではありません。道元禅師は宝治元年(1247)8月から、翌年3月まで鎌倉におりました。よって、「1247年」は、越州にて重陽を迎えたわけではないのです。
さて、道元禅師はこの中でどのように仰っているのでしょうか?主題は「山居」です。よって、間口三間の粗末な茅屋ではあるが、十分に清涼であり、その中には秋菊の香りが満ち溢れているといっているのです。ここで忘れてはならないのが、「重陽の節句」は「菊の節句」です。よって、道元禅師は菊の香りを嗅ぎながら、この山居の偈を詠んでおられることになります。坐禅ばかりしていて、このような節句などに配慮がなかったのではないか?と思っておられる人もいるかもしれません(まぁ、拙ブログの愛読者にはそれはないと思います。むしろ、そのイメージなどを打ち破りたくて、こうした記事を書いています)。しかし、道元禅師は中国に於ける禅宗叢林同様に、節句などにはそれに因んだ行持を修行されておられるのです。記録に残っているところでは、「端午の節句」は確実に行っています。また、節句ではないですが、「中秋の名月」も特に愛しておられました。
このような事例を見るに付け、今回の「重陽の偈頌」もまた、節句に因んでいると読まねばなりません。それを読み込めると「三句目」の意図がハッキリするのです。そもそも、何故「重陽」というかといえば、「九月九日」といった時、数字の「九」が重なります。そして、中国の陰陽説では、「九」というのは「陽の数字」だと考えられてきました。よって、「陽の数字が重なる」ことから「重陽」というのです。
「陽」というのは、世の一切の事象が、元気が出て、発展し、栄える、等の意味を持ちます。実は、道元禅師はこの翌月辺りから病を発し、翌年の8月28日(現在では同日を9月29日と換算する)に御遷化されます。ただ、この重陽の段階でもう既に、自らの体調の変化を敏感に感じ取っておられた可能性があります。しかし、重陽に因んで、そのような「衰え」とは無縁でいたいのだ、という思いを込めて「三句目」がいわれているのでしょう。「三句目」の意味は、鉄や銅といった金属の如く不変の眼睛が、どうして衰える(=潦倒)ことがあろうか、ということです。
無論、仏祖の眼睛が衰えることはあり得ません。しかし、それを担う自身の身心を考えてみた時、50代に入って、しかも体調不良もあったかもしれず、徐々に衰えを感じておられたことでしょう。よって、仏祖の眼睛の真実義に、御自身を重ねて、先の「三句目」があったと見るべきなのです。ただ、その衰えも「重陽」に因んで跳ね返していこうという思いがあるのです。いつも、当ブログでは申し上げていることですが、ただ教えを学んだだけで仏教が分かったと誤解している人には、およそ理解不可能なことだと思いますけれども、実際に尽身心をもって修行を行う場合には、身心の不調によって修行が退転することは珍しいことではないのです。
それは、「妄念と同一視された信心」という思い込みでどうすることも出来ません。ただ単純に退転するのです。よって、そうなった時には、前仏に懺悔し、天や神に「祈祷」をし、今回のように機会を捉えて奮起し直すことが必要になります。このようにいうと、さも、超人の如く思われていた仏祖を、人間として貶めていると思う人がいるかもしれません。拙僧は、仏祖を貶めてはおりません。むしろ、そのような「超人願望」が仏教には不在であることを暴露しているのです。
よって、節句も当然必要になるのです。季節とともに生き、その都度に自然の中で(自身を含めた)大自然を感じながら、自らの修行の進展に資するのです。最近では、冷暖房も効き、食べる物も1年あまり変わらないような都市部に生きている人が多いと思います。よって、拙僧のこの記事も分からないかもしれません。ただ、その時、貴方は大切な自然を見失っているのです。そして、その自然とは野生といいかえても結構です。単純に「生きる力」ということです。修行の根底には、「生きる力」が必要なのです。修行の上で、法の実相を自覚し、結果的に「生死を離れる」ことにはなりますが、それは生死を失うのではなくて、生死を法の事実として受容することを意味しているのです。受容された生死を「生死即涅槃」といいます。
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三間の茅屋清涼に足れり、鼻孔瞞じ難し秋菊香し、
鉄眼銅睛何ぞ潦倒せん、越州にして九度重陽を見ん。
『永平広録』巻10-偈頌108
道元禅師は、建長5年(1253)に御遷化されたわけですけれども、この内容からすれば、1252年に詠まれたものであると分かります。そもそも、今回引用した偈頌は、「山居の頌」として15首『永平広録』に収められている中の1つです。よって、永平寺にいる間に詠まれたものになるわけですが、「越州にて九度重陽を見ん」とあります。道元禅師が越前に移動されたのが、寛元元年(1243)7月になります。よって、その年から数えると、9回というのは、1243・1244・1245・1246・1247・1248・1249・1250・1251となりそうです。先ほど拙僧が述べた内容と1年齟齬が出ます。しかし、拙僧が勘違いしたわけではありません。道元禅師は宝治元年(1247)8月から、翌年3月まで鎌倉におりました。よって、「1247年」は、越州にて重陽を迎えたわけではないのです。
さて、道元禅師はこの中でどのように仰っているのでしょうか?主題は「山居」です。よって、間口三間の粗末な茅屋ではあるが、十分に清涼であり、その中には秋菊の香りが満ち溢れているといっているのです。ここで忘れてはならないのが、「重陽の節句」は「菊の節句」です。よって、道元禅師は菊の香りを嗅ぎながら、この山居の偈を詠んでおられることになります。坐禅ばかりしていて、このような節句などに配慮がなかったのではないか?と思っておられる人もいるかもしれません(まぁ、拙ブログの愛読者にはそれはないと思います。むしろ、そのイメージなどを打ち破りたくて、こうした記事を書いています)。しかし、道元禅師は中国に於ける禅宗叢林同様に、節句などにはそれに因んだ行持を修行されておられるのです。記録に残っているところでは、「端午の節句」は確実に行っています。また、節句ではないですが、「中秋の名月」も特に愛しておられました。
このような事例を見るに付け、今回の「重陽の偈頌」もまた、節句に因んでいると読まねばなりません。それを読み込めると「三句目」の意図がハッキリするのです。そもそも、何故「重陽」というかといえば、「九月九日」といった時、数字の「九」が重なります。そして、中国の陰陽説では、「九」というのは「陽の数字」だと考えられてきました。よって、「陽の数字が重なる」ことから「重陽」というのです。
「陽」というのは、世の一切の事象が、元気が出て、発展し、栄える、等の意味を持ちます。実は、道元禅師はこの翌月辺りから病を発し、翌年の8月28日(現在では同日を9月29日と換算する)に御遷化されます。ただ、この重陽の段階でもう既に、自らの体調の変化を敏感に感じ取っておられた可能性があります。しかし、重陽に因んで、そのような「衰え」とは無縁でいたいのだ、という思いを込めて「三句目」がいわれているのでしょう。「三句目」の意味は、鉄や銅といった金属の如く不変の眼睛が、どうして衰える(=潦倒)ことがあろうか、ということです。
無論、仏祖の眼睛が衰えることはあり得ません。しかし、それを担う自身の身心を考えてみた時、50代に入って、しかも体調不良もあったかもしれず、徐々に衰えを感じておられたことでしょう。よって、仏祖の眼睛の真実義に、御自身を重ねて、先の「三句目」があったと見るべきなのです。ただ、その衰えも「重陽」に因んで跳ね返していこうという思いがあるのです。いつも、当ブログでは申し上げていることですが、ただ教えを学んだだけで仏教が分かったと誤解している人には、およそ理解不可能なことだと思いますけれども、実際に尽身心をもって修行を行う場合には、身心の不調によって修行が退転することは珍しいことではないのです。
それは、「妄念と同一視された信心」という思い込みでどうすることも出来ません。ただ単純に退転するのです。よって、そうなった時には、前仏に懺悔し、天や神に「祈祷」をし、今回のように機会を捉えて奮起し直すことが必要になります。このようにいうと、さも、超人の如く思われていた仏祖を、人間として貶めていると思う人がいるかもしれません。拙僧は、仏祖を貶めてはおりません。むしろ、そのような「超人願望」が仏教には不在であることを暴露しているのです。
よって、節句も当然必要になるのです。季節とともに生き、その都度に自然の中で(自身を含めた)大自然を感じながら、自らの修行の進展に資するのです。最近では、冷暖房も効き、食べる物も1年あまり変わらないような都市部に生きている人が多いと思います。よって、拙僧のこの記事も分からないかもしれません。ただ、その時、貴方は大切な自然を見失っているのです。そして、その自然とは野生といいかえても結構です。単純に「生きる力」ということです。修行の根底には、「生きる力」が必要なのです。修行の上で、法の実相を自覚し、結果的に「生死を離れる」ことにはなりますが、それは生死を失うのではなくて、生死を法の事実として受容することを意味しているのです。受容された生死を「生死即涅槃」といいます。
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