今は止めてしまいましたが、以前相互リンクをしていた方のブログには、曹洞宗の在家信者が、その信を表現するために着けるべき、特別な服装があるか無いか、という問題が、取り沙汰されていました。そして、その問題を頭の片隅に置いていたところ、さらに、と或るお寺さんの授戒会説明会で、その授戒会が終わったら、どのような物を差し上げるべきかという問題で、新命の住職さんが「絡子」といったのに対し、東堂さんが「それは罷り成らん」といい、結局「輪袈裟(輪絡子)」になったことがあって、拙僧も「どうしたものか?」と思っていたのでございます。
そこで、今回はこの問題を採り上げ、改めて読者諸大徳に教えを請う所存でございます。何か、感じるところがございましたら、是非とも御意見をコメントまたはメール(出来れば、真っ当な議論をしたいので、メール[tenjin95@mopera.net]の方がありがたいです)にて頂戴いたしたく、お願い申し上げます。
さて、そもそも、『曹洞宗宗制(以下、『宗制』)』を見ていると、在家信者の定義について、『曹洞宗宗憲』第9章(33条・34条)にて指摘されていますが、そこに服装の規定はございませんでした。そして、一般的に、我々僧侶の服装を定義した箇所としては、『宗制』「曹洞宗服制規程(以下、「服制規程」)」に定められておりますが、その「第1条」には、以下のように謳われています。
この規程は、曹洞宗の僧侶の服制について定めるものとする。
ということは、以前このブログで【「曹洞宗服制規程」に関する一考察(一部追記)】という記事を書いたことがありましたが、結局あの時の問題は全て、出家者の服制ということになります。そこで、改めて服制を見てみると、先だって、その東堂さまが御指摘された、在家者の方へ授与する衣については、「輪袈裟(正式には「輪絡子」)」が良いとしておられたのですが、実際には輪絡子もまた、出家者の服制(略服)として記載されている以上、これをもって、在家者に配るというのは、根拠のないお話になります。
以前、【宗門得度制度に関する一考察】という記事を書いたことがありましたが、宗門では何故か、在家信者の方への規程が総じて曖昧で、そこから今回のような問題も出て来るわけですけれども、意外と、両大本山貫首や師家の方から「在家得度」をしていただく場合には、「絡子」をいただく場合が多いことが分かり、さらに授戒会などでは、「輪絡子」が多いということになりそうです。この辺の相違、一体どこに由来するものやら・・・拙僧には、ちょっと分かりかねるわけでございます。
ところで、道元禅師は、このような在家信者の方の服制について、何か論じておられるのでしょうか?この問題意識をもって、その御著作を拝読いたしますと、興味深い結果が出てまいりました。
居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
これは、蘇東坡に対して、仏印禅師という方が、その力量を認めて、法衣(今では、直綴を意味しますが、元々は袈裟を意味します)・仏戒(菩薩戒)を授けたというのです。一方で、居士はそのお礼かどうかは、文面からは判断できませんが、世俗の価値で計ることの出来ないほどに勝れた「玉帯」を渡しました。道元禅師の文面をそのまま採れば、居士である蘇東坡が、袈裟を着けて修行している様子を肯定しているように見えます。ただし、これは異例だったかもしれず、「凡俗の及ぶところの儀ではない」としていますね。しかし、以上からすれば、在家の方でも袈裟を着けて、修行することは肯定されていたということになりましょうし、また、以下のような記述もあります。
ただまさにこの日本国には、近来の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこぶべし。在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。いはんや出家人、いかでか著せざらん。
『正法眼蔵』「伝衣」巻
このような道元禅師の見解からすれば、結局、在家の方の服装は今の僧侶と同じということになります。それでは、何故、先ほどの東堂さまのような見解が出て来たのでしょう?やはり、本山などで、行われている「慣例」というのが、重きをなしていると理解して良いということになるでしょうか。
後は、仮定を交えた拙僧の私見になります。拙僧の問題意識に、僧侶以外の人が、僧侶と同じ格好をされるとどうなるのか?というものがございます。実は、これは海外の話ですが、或る外国の方が、永平寺にて在家得度式(授戒会ではない)に参加し、絡子及び、安名などをもらって帰国しました。すると、その外国人は、「自分は、永平寺の住職から、名前と絡子をもらった“正式な弟子”である」と自称して、勝手に布教などを始めました。実際には、「在家得度」という極めて曖昧な根拠・式作法による俗弟子ですが、それは式に参加された一般の方も分からないでしょうし、この外国の人から布教された人には、もっと分かりません。彼方此方で混乱を招いたとも側聞しております。
よって、この外国の方は、いわば曹洞宗版「私度僧」とでもいうべきなのかもしれませんが(厳密な意味では「私度」ではないので、アナロジーとして理解して欲しい)、要するに、曹洞宗的には、有資格者ではないにも拘わらず、ちょっとした記念品(これが袈裟であることこそ問題か?)でもって、曹洞宗の正式な僧だと名乗ったことになります。これで、何が問題かといえば、結局この人が曹洞宗の僧侶を名乗って弟子などを集め、そして弟子達が、もし自分たちが嘘をつかれていると知った時の対応ということになるでしょうか。或いは、この人が、曹洞宗の名を騙って、何か多くの人に損害を与えた時に、曹洞宗側では、手の出しようがないということになることでしょうか。
更に、こういう「野心」を持つ人が、頭を剃って、勝手に布教や葬儀などを始めたらどうなるでしょうか?混乱するのは目に見えています。私は、そのような問題点が起こる可能性が、1%でもある以上は、在家の方に僧侶を同じ格好をして良いというようなことは、申し上げられないのかな?なんて思います。そうしたければ、やはりキチッと出家をして、そして、僧侶としての責任を曹洞宗に対して負うべきであると思います。
ただし、先にも挙げたように、道元禅師の言葉には、僧侶と同じ格好をすることが許容されていたことなどを思うと、拙僧の私見は成立しないし・・・などなど、結局問題ばかりが露呈した記事になってしまいました。自分でまとめれば良いのに、その労力を省くため、江戸時代の学僧である面山瑞方師と万仭道坦師による『金龍軒問答』にも、ちょうど当記事の問題が指摘されているので紹介しておきます。
在家に袈裟を許すこと、永平の説もあれども、とくと考れば一概にはいはれず。優姿塞にも五段あり、もし断婬の優姿塞にもなりたらば五條を許容して晨昏三宝恭敬の時ばかりは用ひさせてよし。また仏制の離衣罪のことは、受具足戒の人に制せらる。俗人のことにはあらず。上衣の大衣は説法衣なれば、俗人不用なり、中衣の七條は入衆衣なれば俗人不用なり、下衣の五條は在家に許してしかるべし。これみな梵網菩薩戒の説によりて在家の菩薩に袈裟を許すなり。雲棲・永覚等は円頓の菩薩戒はしらず、ただ共に声聞の戒ゆへに在家にゆるさぬなり。
『続曹洞宗全書』「法語」巻、492頁、カナをかなにする
いかがでしょうか?なんとなくですが、このように出家者と在家者の服装を分けるというのは、この時代からも特にいわれることでございました。仮説としてですが、拙僧はこの辺に、曹洞宗で授戒会が盛んに行われることになったのと、軌を一にしているのではないかと思っています。いわば、それまで出家者たる寺院僧侶と、在家者とが限り無く近付く状況に於いて、両者を分けるのに、ただの髪型などだけではなくて、服装で分けることが必要だったのではないか?ということです。もちろん、仮説ですから、他の理由などもあることでしょう。ですので、この記事を批判することは簡単でしょうし、或いは現状を批判するのも簡単ですが、まずは様々なテキストに基づいた、読者諸大徳からのご指導・ご意見を賜りたく思うのでございます。合掌。
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さて、そもそも、『曹洞宗宗制(以下、『宗制』)』を見ていると、在家信者の定義について、『曹洞宗宗憲』第9章(33条・34条)にて指摘されていますが、そこに服装の規定はございませんでした。そして、一般的に、我々僧侶の服装を定義した箇所としては、『宗制』「曹洞宗服制規程(以下、「服制規程」)」に定められておりますが、その「第1条」には、以下のように謳われています。
この規程は、曹洞宗の僧侶の服制について定めるものとする。
ということは、以前このブログで【「曹洞宗服制規程」に関する一考察(一部追記)】という記事を書いたことがありましたが、結局あの時の問題は全て、出家者の服制ということになります。そこで、改めて服制を見てみると、先だって、その東堂さまが御指摘された、在家者の方へ授与する衣については、「輪袈裟(正式には「輪絡子」)」が良いとしておられたのですが、実際には輪絡子もまた、出家者の服制(略服)として記載されている以上、これをもって、在家者に配るというのは、根拠のないお話になります。
以前、【宗門得度制度に関する一考察】という記事を書いたことがありましたが、宗門では何故か、在家信者の方への規程が総じて曖昧で、そこから今回のような問題も出て来るわけですけれども、意外と、両大本山貫首や師家の方から「在家得度」をしていただく場合には、「絡子」をいただく場合が多いことが分かり、さらに授戒会などでは、「輪絡子」が多いということになりそうです。この辺の相違、一体どこに由来するものやら・・・拙僧には、ちょっと分かりかねるわけでございます。
ところで、道元禅師は、このような在家信者の方の服制について、何か論じておられるのでしょうか?この問題意識をもって、その御著作を拝読いたしますと、興味深い結果が出てまいりました。
居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
これは、蘇東坡に対して、仏印禅師という方が、その力量を認めて、法衣(今では、直綴を意味しますが、元々は袈裟を意味します)・仏戒(菩薩戒)を授けたというのです。一方で、居士はそのお礼かどうかは、文面からは判断できませんが、世俗の価値で計ることの出来ないほどに勝れた「玉帯」を渡しました。道元禅師の文面をそのまま採れば、居士である蘇東坡が、袈裟を着けて修行している様子を肯定しているように見えます。ただし、これは異例だったかもしれず、「凡俗の及ぶところの儀ではない」としていますね。しかし、以上からすれば、在家の方でも袈裟を着けて、修行することは肯定されていたということになりましょうし、また、以下のような記述もあります。
ただまさにこの日本国には、近来の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこぶべし。在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。いはんや出家人、いかでか著せざらん。
『正法眼蔵』「伝衣」巻
このような道元禅師の見解からすれば、結局、在家の方の服装は今の僧侶と同じということになります。それでは、何故、先ほどの東堂さまのような見解が出て来たのでしょう?やはり、本山などで、行われている「慣例」というのが、重きをなしていると理解して良いということになるでしょうか。
後は、仮定を交えた拙僧の私見になります。拙僧の問題意識に、僧侶以外の人が、僧侶と同じ格好をされるとどうなるのか?というものがございます。実は、これは海外の話ですが、或る外国の方が、永平寺にて在家得度式(授戒会ではない)に参加し、絡子及び、安名などをもらって帰国しました。すると、その外国人は、「自分は、永平寺の住職から、名前と絡子をもらった“正式な弟子”である」と自称して、勝手に布教などを始めました。実際には、「在家得度」という極めて曖昧な根拠・式作法による俗弟子ですが、それは式に参加された一般の方も分からないでしょうし、この外国の人から布教された人には、もっと分かりません。彼方此方で混乱を招いたとも側聞しております。
よって、この外国の方は、いわば曹洞宗版「私度僧」とでもいうべきなのかもしれませんが(厳密な意味では「私度」ではないので、アナロジーとして理解して欲しい)、要するに、曹洞宗的には、有資格者ではないにも拘わらず、ちょっとした記念品(これが袈裟であることこそ問題か?)でもって、曹洞宗の正式な僧だと名乗ったことになります。これで、何が問題かといえば、結局この人が曹洞宗の僧侶を名乗って弟子などを集め、そして弟子達が、もし自分たちが嘘をつかれていると知った時の対応ということになるでしょうか。或いは、この人が、曹洞宗の名を騙って、何か多くの人に損害を与えた時に、曹洞宗側では、手の出しようがないということになることでしょうか。
更に、こういう「野心」を持つ人が、頭を剃って、勝手に布教や葬儀などを始めたらどうなるでしょうか?混乱するのは目に見えています。私は、そのような問題点が起こる可能性が、1%でもある以上は、在家の方に僧侶を同じ格好をして良いというようなことは、申し上げられないのかな?なんて思います。そうしたければ、やはりキチッと出家をして、そして、僧侶としての責任を曹洞宗に対して負うべきであると思います。
ただし、先にも挙げたように、道元禅師の言葉には、僧侶と同じ格好をすることが許容されていたことなどを思うと、拙僧の私見は成立しないし・・・などなど、結局問題ばかりが露呈した記事になってしまいました。自分でまとめれば良いのに、その労力を省くため、江戸時代の学僧である面山瑞方師と万仭道坦師による『金龍軒問答』にも、ちょうど当記事の問題が指摘されているので紹介しておきます。
在家に袈裟を許すこと、永平の説もあれども、とくと考れば一概にはいはれず。優姿塞にも五段あり、もし断婬の優姿塞にもなりたらば五條を許容して晨昏三宝恭敬の時ばかりは用ひさせてよし。また仏制の離衣罪のことは、受具足戒の人に制せらる。俗人のことにはあらず。上衣の大衣は説法衣なれば、俗人不用なり、中衣の七條は入衆衣なれば俗人不用なり、下衣の五條は在家に許してしかるべし。これみな梵網菩薩戒の説によりて在家の菩薩に袈裟を許すなり。雲棲・永覚等は円頓の菩薩戒はしらず、ただ共に声聞の戒ゆへに在家にゆるさぬなり。
『続曹洞宗全書』「法語」巻、492頁、カナをかなにする
いかがでしょうか?なんとなくですが、このように出家者と在家者の服装を分けるというのは、この時代からも特にいわれることでございました。仮説としてですが、拙僧はこの辺に、曹洞宗で授戒会が盛んに行われることになったのと、軌を一にしているのではないかと思っています。いわば、それまで出家者たる寺院僧侶と、在家者とが限り無く近付く状況に於いて、両者を分けるのに、ただの髪型などだけではなくて、服装で分けることが必要だったのではないか?ということです。もちろん、仮説ですから、他の理由などもあることでしょう。ですので、この記事を批判することは簡単でしょうし、或いは現状を批判するのも簡単ですが、まずは様々なテキストに基づいた、読者諸大徳からのご指導・ご意見を賜りたく思うのでございます。合掌。
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