道元禅師の『正法眼蔵』を拝読していると、本当に唸ってしまうような名文に出会うことがある。毎日読み続けていてもそうなのだから、この聖典は、我々の知見にどれほどの良い影響を与えてくれるのか、未だ、その全貌を捉え切れていないのが、何とも底知れない。そして、この底知れなさが良いのである。必死になって理解しようとしてはならない。それが『正法眼蔵』の学び方のアルファでありオメガである。
国師、因僧問、如何是古仏心。師云、牆壁瓦礫。
いはゆる問処は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を挙して、問処とせるなり。この問処、ひろく古今の道得となれり。
このゆえに、華開の万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。世界起の九山八海、これ古仏の日面・月面なり、古仏の皮肉骨髄なり。さらに又、古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし、仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆえなり。心仏はかならず古なるべきがゆえに、古心は、椅子・竹木なり。尽大地覓一箇会仏法人不可得なり、和尚喚這箇作甚麼なり。いまの時節因縁、および塵刹・虚空、ともに古心にあらずといふことなし。古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図なり。
『正法眼蔵』「古仏心」巻
この「国師」というのは、六祖慧能の法嗣である大証国師・南陽慧忠禅師(?〜775)である。大証国師にある僧が、「古仏心とは何ですか?」と聞いた。国師は「牆壁や瓦礫のことだ」といった。これを、例えば、情緒的な価値論として読み解く人がいるとすれば、「牆壁や瓦礫のように取るに足らないモノ」ということで、禅宗に於けるコモディティ的な性格として解釈する人がいるだろう。
だが、ここで問われているのは、そういう価値論では無くて、まさに牆壁や瓦礫が古仏心だ、ということである。目の前にある牆壁や瓦礫が、古仏の心だと述べているのである。或いは、古の仏心だといっているのである。
然るに、道元禅師は実はこの僧が発した問いの文脈こそが、「古仏心」を言い当てているという。つまり、「問処の道得」だと述べている。問処の道得については、しばしばこのブログでも論じるところであるので、もう慣れている人も多いと思う。問いだと思われる文脈が、実は、その答えの内容を一番良く表現しているのだ。
この場合は、「如何なるか是れ、古仏心」という問いであった。しかし、これを原文に返せば「如何是古仏心」である。つまり、「如何」こそが「是れ古仏心」だということである。「如何」とは、「如何という問い」のように思えて、実は、この「問いの様相」を我が身に引き当てて考えてみれば、従来の自己の知見に回収出来ない事象に対して、「如何」と発していることになる。つまり、自己から考えてみれば、その「如何」が指し示そうとしている事象、当のモノについては、あらゆる思慮分別を及ぼせていないことになる。よって、「如何」の対象とは、常に無分別の事象である。
そこで、「古仏心」である。これは、「古」が入っていても、「仏」に関する事象である。「仏」とは、無分別の極みである。よって、「古仏心」とは、「無分別」でなくてはならない。だからこそ、「如何」と評されるべきなのだ。これを、道元禅師は、「問処の道得」であるといった。「問処」そのものが無分別である以上、「道得」なのである。よって、「華開の万木百草」という悟りの上に開いた諸事象は皆、古仏の道得(表現)であり、古仏の問処(無分別のままにある諸事象)である。
或いは、世界起(これは、華開によって起きる事象なので、先と同じく悟りの上の事象)としての、九山や八海というあらゆる世界とは、まさに古仏の面目であり、古仏の皮肉骨髄(内容)そのものである。しかも、そのような静態的に捉えられるだけでは無く、動態としても捉えられ、行仏・証仏・作仏としての、華開世界起である。「仏古」というのは、「仏が古である」ことを示した道元禅師の造語だが、この「古」とは、我々の分別知見の及ばない、いわゆる父母未生以前・威音王仏以前のことであり、それを心としているのである。
つまり、無分別を仏とし、心としていることをという。だからこそ、心・仏とは、仏祖の道理でいえば、必ず「古」である。その古心の上に、椅子や竹木がある。椅子と竹木とは、全く別の存在では無くて、竹木は本来椅子の材料である。だが、その要素と、実際の事象とが並行的に存在している状態、それが無分別である。無分別だからこそ、尽大地には、1人の「会仏法人」ですら、「不可得」である。これは、存在しないことを意味していない。存在する/しないという分別が適用できないことを、「不可得」とはいう。だからこそ、「和尚、這箇を喚んで甚麼と作す」のである。「甚麼」とは「何?」ということであるが、先の「如何」と同じく、「何」という無分別である。
したがって、あらゆる存在は皆、古心の上にあり、古仏の上にある。時節因縁も、塵刹も虚空も、古心では無いことは無いのである。古仏では無いことは無いのである。よって、古心だとすれば、同時に古仏である。古心を会得すれば、古仏をも会得する。これは、一つの面目の両側ということである。では、その「面目」とは何か、もう繰り返しなのでいうまでもないが、無分別ということである。
この道理には、表面には出てこないが、『華厳経』の「唯心偈」も影響していると見るべきであろう。「三界は唯だ一心のみにして、心の外に別法無し。心・仏及び衆生、是の三、差別無し」である。古心と古仏とは無差別。そして衆生とは、牆壁瓦礫・時節因縁・塵刹・虚空であり、「是の三、差別無し」である。「古仏心」を普遍性と無分別を介して考えれば、「唯心偈」に至るのである。
我々は、目の前にある事象を、古仏心だと把握する。いや、それが事実なのだから、無分別でありさえすれば良い。しかし、人は往々にして、無分別の状況を問おうとする。それは詮無きことである。とはいえ、無駄な問いであっても、その問いの発する先は、未だ我々の知見が及んでいないから、まさに無分別として「問処の道得」である。ただし、これもまた往々にして、問処の道得ということそのものも会得しがたい事ではある。しかし、問いに自らをお任せしきることが出来る人は、既に道得である。答えなどいわずとも良い。言わないのでは無い。言えないのでは無い。道得の不道は仏々の要機、祖々の機要である。
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国師、因僧問、如何是古仏心。師云、牆壁瓦礫。
いはゆる問処は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を挙して、問処とせるなり。この問処、ひろく古今の道得となれり。
このゆえに、華開の万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。世界起の九山八海、これ古仏の日面・月面なり、古仏の皮肉骨髄なり。さらに又、古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし、仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆえなり。心仏はかならず古なるべきがゆえに、古心は、椅子・竹木なり。尽大地覓一箇会仏法人不可得なり、和尚喚這箇作甚麼なり。いまの時節因縁、および塵刹・虚空、ともに古心にあらずといふことなし。古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図なり。
『正法眼蔵』「古仏心」巻
この「国師」というのは、六祖慧能の法嗣である大証国師・南陽慧忠禅師(?〜775)である。大証国師にある僧が、「古仏心とは何ですか?」と聞いた。国師は「牆壁や瓦礫のことだ」といった。これを、例えば、情緒的な価値論として読み解く人がいるとすれば、「牆壁や瓦礫のように取るに足らないモノ」ということで、禅宗に於けるコモディティ的な性格として解釈する人がいるだろう。
だが、ここで問われているのは、そういう価値論では無くて、まさに牆壁や瓦礫が古仏心だ、ということである。目の前にある牆壁や瓦礫が、古仏の心だと述べているのである。或いは、古の仏心だといっているのである。
然るに、道元禅師は実はこの僧が発した問いの文脈こそが、「古仏心」を言い当てているという。つまり、「問処の道得」だと述べている。問処の道得については、しばしばこのブログでも論じるところであるので、もう慣れている人も多いと思う。問いだと思われる文脈が、実は、その答えの内容を一番良く表現しているのだ。
この場合は、「如何なるか是れ、古仏心」という問いであった。しかし、これを原文に返せば「如何是古仏心」である。つまり、「如何」こそが「是れ古仏心」だということである。「如何」とは、「如何という問い」のように思えて、実は、この「問いの様相」を我が身に引き当てて考えてみれば、従来の自己の知見に回収出来ない事象に対して、「如何」と発していることになる。つまり、自己から考えてみれば、その「如何」が指し示そうとしている事象、当のモノについては、あらゆる思慮分別を及ぼせていないことになる。よって、「如何」の対象とは、常に無分別の事象である。
そこで、「古仏心」である。これは、「古」が入っていても、「仏」に関する事象である。「仏」とは、無分別の極みである。よって、「古仏心」とは、「無分別」でなくてはならない。だからこそ、「如何」と評されるべきなのだ。これを、道元禅師は、「問処の道得」であるといった。「問処」そのものが無分別である以上、「道得」なのである。よって、「華開の万木百草」という悟りの上に開いた諸事象は皆、古仏の道得(表現)であり、古仏の問処(無分別のままにある諸事象)である。
或いは、世界起(これは、華開によって起きる事象なので、先と同じく悟りの上の事象)としての、九山や八海というあらゆる世界とは、まさに古仏の面目であり、古仏の皮肉骨髄(内容)そのものである。しかも、そのような静態的に捉えられるだけでは無く、動態としても捉えられ、行仏・証仏・作仏としての、華開世界起である。「仏古」というのは、「仏が古である」ことを示した道元禅師の造語だが、この「古」とは、我々の分別知見の及ばない、いわゆる父母未生以前・威音王仏以前のことであり、それを心としているのである。
つまり、無分別を仏とし、心としていることをという。だからこそ、心・仏とは、仏祖の道理でいえば、必ず「古」である。その古心の上に、椅子や竹木がある。椅子と竹木とは、全く別の存在では無くて、竹木は本来椅子の材料である。だが、その要素と、実際の事象とが並行的に存在している状態、それが無分別である。無分別だからこそ、尽大地には、1人の「会仏法人」ですら、「不可得」である。これは、存在しないことを意味していない。存在する/しないという分別が適用できないことを、「不可得」とはいう。だからこそ、「和尚、這箇を喚んで甚麼と作す」のである。「甚麼」とは「何?」ということであるが、先の「如何」と同じく、「何」という無分別である。
したがって、あらゆる存在は皆、古心の上にあり、古仏の上にある。時節因縁も、塵刹も虚空も、古心では無いことは無いのである。古仏では無いことは無いのである。よって、古心だとすれば、同時に古仏である。古心を会得すれば、古仏をも会得する。これは、一つの面目の両側ということである。では、その「面目」とは何か、もう繰り返しなのでいうまでもないが、無分別ということである。
この道理には、表面には出てこないが、『華厳経』の「唯心偈」も影響していると見るべきであろう。「三界は唯だ一心のみにして、心の外に別法無し。心・仏及び衆生、是の三、差別無し」である。古心と古仏とは無差別。そして衆生とは、牆壁瓦礫・時節因縁・塵刹・虚空であり、「是の三、差別無し」である。「古仏心」を普遍性と無分別を介して考えれば、「唯心偈」に至るのである。
我々は、目の前にある事象を、古仏心だと把握する。いや、それが事実なのだから、無分別でありさえすれば良い。しかし、人は往々にして、無分別の状況を問おうとする。それは詮無きことである。とはいえ、無駄な問いであっても、その問いの発する先は、未だ我々の知見が及んでいないから、まさに無分別として「問処の道得」である。ただし、これもまた往々にして、問処の道得ということそのものも会得しがたい事ではある。しかし、問いに自らをお任せしきることが出来る人は、既に道得である。答えなどいわずとも良い。言わないのでは無い。言えないのでは無い。道得の不道は仏々の要機、祖々の機要である。
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