当カテゴリーもいよいよ100回である。第1回目の記事が、2006年7月14日であるから、足かけ4年にわたって記事を伝えてきたことになる。もっとも、語句は短いからかなり楽をさせて貰ってはいるけれども・・・今日は100回目らしく、100に因んだ記事にしよう。
しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。この一日の身命は、たふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
『修証義』「第五章行持報恩」にも引用されている箇所でもあるので、なんとなく見たことがある文脈であると思う。道元禅師は行持の真意について、とにかく一日が重いことを指摘し、百歳という長さを生きてみても、その中たった一日でも修行がされているかどうかで、全く変わってくるという。たった一日でも修行をすれば、一生涯の修行を果たしたこととなり、また次の人生(他生)をも救ってしまっている。しかし、何故か世の人はこの意義を信じない。ゴタゴタ言う前に坐ってしまえば良いだけなのに。良く人は、宗教に見える「信仰」について忌避感を抱く。しかし、実際のところ、ただ思っているだけの信仰なら意味は無い。常に我々は「信受奉行」すべきなのである。
※この「約300字で仏教」というカテゴリーですが、100回目になりましたので、一時休載し、今後しばらくの間は良寛さんの『良寛禅師一口戒語』を紹介していきたいと思います。一応、全部で100個あるそうなので、それを使えば100回分の記事になるかと思った次第です。次回からカテゴリー名も変わりますけど、よろしくお願いいたします。
従来の記事は【カテゴリー約300字で仏教】からどうぞ。
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しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。この一日の身命は、たふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
『修証義』「第五章行持報恩」にも引用されている箇所でもあるので、なんとなく見たことがある文脈であると思う。道元禅師は行持の真意について、とにかく一日が重いことを指摘し、百歳という長さを生きてみても、その中たった一日でも修行がされているかどうかで、全く変わってくるという。たった一日でも修行をすれば、一生涯の修行を果たしたこととなり、また次の人生(他生)をも救ってしまっている。しかし、何故か世の人はこの意義を信じない。ゴタゴタ言う前に坐ってしまえば良いだけなのに。良く人は、宗教に見える「信仰」について忌避感を抱く。しかし、実際のところ、ただ思っているだけの信仰なら意味は無い。常に我々は「信受奉行」すべきなのである。
※この「約300字で仏教」というカテゴリーですが、100回目になりましたので、一時休載し、今後しばらくの間は良寛さんの『良寛禅師一口戒語』を紹介していきたいと思います。一応、全部で100個あるそうなので、それを使えば100回分の記事になるかと思った次第です。次回からカテゴリー名も変わりますけど、よろしくお願いいたします。
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