禅宗建築では、七堂伽藍といって、仏殿・法堂・僧堂・庫院・三門(山門)・東司・浴司という7つが揃っているのが、一番正式だとかいわれるわけだが、無論、本山級の寺でも無ければ、そんな伽藍は揃っていない。ところで、その一番中心にあるのが、仏殿である。ここは文字通り、仏陀像をお祀りするための殿堂に当たるのだが、問題は、何を祀っているのか?ということである。例えば、現在の曹洞宗・大本山永平寺では、阿弥陀(過去)・釈迦(現在)・弥勒(未来)という三世仏である。
三世仏というと、中々馴染みがないかもしれないし、実際に諸説あるのだが、例えば、我々曹洞宗侶が食事や葬儀の場面で唱える念誦である十仏名には、この三世仏が入っている。
円満なる報身たる盧舎那仏
千百億の化身たる釈迦牟尼仏
当来に下生する弥勒尊仏
これが、そのまま過去・現在・未来に対応するわけである。この場合、盧舎那仏は報身として描かれているが、これが過去仏に相当する理由は、既に時間的な前後を超えて成道しているわけで、しかし、今から見れば、随分と前に成道した存在だというので過去仏になる。釈迦牟尼仏は、まさにこの世で成仏された存在なので、現在仏となる。釈尊入滅後56億7千万年後に下生して成道する弥勒仏は未来仏である。
ただ、面白いのは、江戸時代の学僧・面山瑞方師は『洞上伽藍諸堂安像記』にて「仏殿三尊」を紹介し、次のように指摘する。
泉涌寺の殿堂色目を案ずるに云く、仏殿は、釈迦(過去仏・丈六)、弥陀(現在仏・丈六)、弥勒(未来仏・丈六)を安置す。三世の教主を以て、一寺崇仰の本尊と為す。
この『殿堂色目』は、泉涌寺の俊芿律師が書いたと面山師は伝えるが、同書では釈迦仏が過去仏となり、弥陀仏が現在仏となっている。恐らくは極楽に行けば逢えるから、阿弥陀仏が現在仏なのであろう。この記録は面白くて、面山師の博覧強記ぶりを窺うことが出来るのだが、曹洞宗・臨済宗諸寺の本尊についての記録がある。特に、曹洞宗では、永平寺で「釈迦・弥陀・弥勒」であったこと(これは天童山に倣ったという)、そして、瑩山禅師開山の永光寺では「釈迦・観音・虚空蔵」であったという(これは『洞谷記』を参照したか?)。
そうなると、曹洞宗では、釈尊を中心に、諸仏・諸菩薩が祀られて良いという話になる。ではあるが、少し気になる記述もある。以下の一文をご覧いただきたい。
聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。
『正法眼蔵』「看経」巻
これは、道元禅師が興聖寺にいる間に示された一巻で、特に、天皇誕生日を祝って行われる「聖節の看経」を示した文章である。その中に、「仏殿の釈迦仏のまへ」とある。となると興聖寺では仏殿には釈迦仏一仏のみが祀られていたといえる。もし、三世仏なら、「三世仏のまへ」となるだろうし、「釈迦三尊」なら、「三尊のまへ」になるだろう。文章でそうしていないとなれば、興聖寺は仏殿に釈尊のみを祀っていたと考えるのが妥当である。
そもそも、『建撕記』を見れば、興聖寺は極楽寺の旧址に建てられたといい、「仏殿」は最初からあったという。よって、この本尊は、道元禅師が入る前からあったということになろうか。もし、途中で入ったとすれば、それに因む上堂なり、説話なりが残っていても良いと思うが、それはない。よって、最初からあったという判断を行った。であれば、永平寺はどうだろう?実は、永平寺こそ、何を祀っていたか分からない。一説には、道元禅師の在世時には仏殿は無かったという人までいたのだが、拙僧はあったと考えている。理由は、『永平広録』巻2-155上堂に釈尊降誕会(1246年4月8日)の上堂が入っていて、説法を終えた道元禅師が「下座し、大衆とともに同じく仏殿を詣でて、如来の清浄法身を拝浴す」とされたことがあった。これをそのまま受ければ、永平寺改称直前(同年6月15日に改称)には、既にあったといえる。
では、この永平寺には何が祀られていたのであろうか。『建撕記』には、その回答に繋がる文章がある。
一生の大願に、かまえて釈迦仏自ら手らつくりまいらせばやと願念つかまつりそろ。
これは、「本尊自作起請文」と通称される仮名書きの起請文で、道元禅師が釈迦仏を自分で作りたいと願っている内容である。寛元2年(1244)8月14日に書かれたと推定されている。これを見る限り、やはり、大仏寺(永平寺)には、この自作の釈迦仏が祀られていたのではないかと思われるのである。現在では、三世仏が仏殿にあるが、これは恐らく後の三世・義介禅師であろう。義介禅師は、懐弉禅師の命を受け、中国各地の禅宗寺院を視察し、その成果を受けて永平寺の面目を一新させたという。
本寺に帰り、山門を建て、両廊を造り、三尊を安置し、祖師三尊・土地五躯、悉く之を造る。
『永平寺三祖行業記』「義介禅師章」
このようにあるためである。「三尊を安置し」は、恐らくは仏殿のそれを意味すると思われる。ただ、これだけでは、三尊が具体的に何であったのかは分からない。しかし、江戸期の面山師の指摘により、天童山に倣ったと仮定して、これを三世仏だと考えるわけである。義介禅師が書いたとされる、『五山十刹図』には、南宋時代の禅林の様子が示されるが、確かに天童山の仏殿は「三世如来」とある。
よって、ここで繋がるように思えて、実は、「三尊」と「三世如来」の差異が強まり、むしろ、三世仏を安置したのは義介禅師では無い、という話になってしまいそうである。しかも、「三尊」、特に「釈迦三尊」といえば、義介禅師の法嗣である瑩山紹瑾禅師が永光寺にて安置した。
中尊・釈迦牟尼仏、加賀国井家庄中田右馬尉、悲母十三年追善の為に、卅貫を以て木で作る、瑩山、五十貫を以て餝を奉る。
左脇士・観世音菩薩、洛陽高辻大宮駿河法眼定審、先考定守法眼、十三年追善の為。木で作る。
右脇・虚空蔵菩薩、加賀国富樫庄野市藤次郎、自身の現当の願望、皆な満足せしむる為。木で作る。
大乗寺古写本『洞谷記』参照
このような記述が気になるのである。釈尊・観音・虚空蔵という三尊である。この内、当初は観音を本尊としていたようだが、釈尊が出来たので観音は脇侍となり、合わせて虚空蔵を置いたという。瑩山禅師は道元禅師を追慕すること、他の祖師の追随を許さないところがあるが、果たして、その追慕される道元禅師の時代はどうであったのか?ただ釈迦仏のみであった可能性が高い。そんなことを示しつつ、この記事を終える。
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三世仏というと、中々馴染みがないかもしれないし、実際に諸説あるのだが、例えば、我々曹洞宗侶が食事や葬儀の場面で唱える念誦である十仏名には、この三世仏が入っている。
円満なる報身たる盧舎那仏
千百億の化身たる釈迦牟尼仏
当来に下生する弥勒尊仏
これが、そのまま過去・現在・未来に対応するわけである。この場合、盧舎那仏は報身として描かれているが、これが過去仏に相当する理由は、既に時間的な前後を超えて成道しているわけで、しかし、今から見れば、随分と前に成道した存在だというので過去仏になる。釈迦牟尼仏は、まさにこの世で成仏された存在なので、現在仏となる。釈尊入滅後56億7千万年後に下生して成道する弥勒仏は未来仏である。
ただ、面白いのは、江戸時代の学僧・面山瑞方師は『洞上伽藍諸堂安像記』にて「仏殿三尊」を紹介し、次のように指摘する。
泉涌寺の殿堂色目を案ずるに云く、仏殿は、釈迦(過去仏・丈六)、弥陀(現在仏・丈六)、弥勒(未来仏・丈六)を安置す。三世の教主を以て、一寺崇仰の本尊と為す。
この『殿堂色目』は、泉涌寺の俊芿律師が書いたと面山師は伝えるが、同書では釈迦仏が過去仏となり、弥陀仏が現在仏となっている。恐らくは極楽に行けば逢えるから、阿弥陀仏が現在仏なのであろう。この記録は面白くて、面山師の博覧強記ぶりを窺うことが出来るのだが、曹洞宗・臨済宗諸寺の本尊についての記録がある。特に、曹洞宗では、永平寺で「釈迦・弥陀・弥勒」であったこと(これは天童山に倣ったという)、そして、瑩山禅師開山の永光寺では「釈迦・観音・虚空蔵」であったという(これは『洞谷記』を参照したか?)。
そうなると、曹洞宗では、釈尊を中心に、諸仏・諸菩薩が祀られて良いという話になる。ではあるが、少し気になる記述もある。以下の一文をご覧いただきたい。
聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。
『正法眼蔵』「看経」巻
これは、道元禅師が興聖寺にいる間に示された一巻で、特に、天皇誕生日を祝って行われる「聖節の看経」を示した文章である。その中に、「仏殿の釈迦仏のまへ」とある。となると興聖寺では仏殿には釈迦仏一仏のみが祀られていたといえる。もし、三世仏なら、「三世仏のまへ」となるだろうし、「釈迦三尊」なら、「三尊のまへ」になるだろう。文章でそうしていないとなれば、興聖寺は仏殿に釈尊のみを祀っていたと考えるのが妥当である。
そもそも、『建撕記』を見れば、興聖寺は極楽寺の旧址に建てられたといい、「仏殿」は最初からあったという。よって、この本尊は、道元禅師が入る前からあったということになろうか。もし、途中で入ったとすれば、それに因む上堂なり、説話なりが残っていても良いと思うが、それはない。よって、最初からあったという判断を行った。であれば、永平寺はどうだろう?実は、永平寺こそ、何を祀っていたか分からない。一説には、道元禅師の在世時には仏殿は無かったという人までいたのだが、拙僧はあったと考えている。理由は、『永平広録』巻2-155上堂に釈尊降誕会(1246年4月8日)の上堂が入っていて、説法を終えた道元禅師が「下座し、大衆とともに同じく仏殿を詣でて、如来の清浄法身を拝浴す」とされたことがあった。これをそのまま受ければ、永平寺改称直前(同年6月15日に改称)には、既にあったといえる。
では、この永平寺には何が祀られていたのであろうか。『建撕記』には、その回答に繋がる文章がある。
一生の大願に、かまえて釈迦仏自ら手らつくりまいらせばやと願念つかまつりそろ。
これは、「本尊自作起請文」と通称される仮名書きの起請文で、道元禅師が釈迦仏を自分で作りたいと願っている内容である。寛元2年(1244)8月14日に書かれたと推定されている。これを見る限り、やはり、大仏寺(永平寺)には、この自作の釈迦仏が祀られていたのではないかと思われるのである。現在では、三世仏が仏殿にあるが、これは恐らく後の三世・義介禅師であろう。義介禅師は、懐弉禅師の命を受け、中国各地の禅宗寺院を視察し、その成果を受けて永平寺の面目を一新させたという。
本寺に帰り、山門を建て、両廊を造り、三尊を安置し、祖師三尊・土地五躯、悉く之を造る。
『永平寺三祖行業記』「義介禅師章」
このようにあるためである。「三尊を安置し」は、恐らくは仏殿のそれを意味すると思われる。ただ、これだけでは、三尊が具体的に何であったのかは分からない。しかし、江戸期の面山師の指摘により、天童山に倣ったと仮定して、これを三世仏だと考えるわけである。義介禅師が書いたとされる、『五山十刹図』には、南宋時代の禅林の様子が示されるが、確かに天童山の仏殿は「三世如来」とある。
よって、ここで繋がるように思えて、実は、「三尊」と「三世如来」の差異が強まり、むしろ、三世仏を安置したのは義介禅師では無い、という話になってしまいそうである。しかも、「三尊」、特に「釈迦三尊」といえば、義介禅師の法嗣である瑩山紹瑾禅師が永光寺にて安置した。
中尊・釈迦牟尼仏、加賀国井家庄中田右馬尉、悲母十三年追善の為に、卅貫を以て木で作る、瑩山、五十貫を以て餝を奉る。
左脇士・観世音菩薩、洛陽高辻大宮駿河法眼定審、先考定守法眼、十三年追善の為。木で作る。
右脇・虚空蔵菩薩、加賀国富樫庄野市藤次郎、自身の現当の願望、皆な満足せしむる為。木で作る。
大乗寺古写本『洞谷記』参照
このような記述が気になるのである。釈尊・観音・虚空蔵という三尊である。この内、当初は観音を本尊としていたようだが、釈尊が出来たので観音は脇侍となり、合わせて虚空蔵を置いたという。瑩山禅師は道元禅師を追慕すること、他の祖師の追随を許さないところがあるが、果たして、その追慕される道元禅師の時代はどうであったのか?ただ釈迦仏のみであった可能性が高い。そんなことを示しつつ、この記事を終える。
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