Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15762

或る禅僧が説く大乗と最上乗の違い

$
0
0
臨済宗の至道無難禅師(1603〜1676)には、多くの仮名法語が遺され、それを集めた著作集などもございます。今日はその中から、大乗と最上乗の違いについて書かれたものを見ていきましょう。

 一、或る人が大乗(仏教)とは何かと質問した。予が言うには、身を正しくして、守ることが無いことを、大乗というのだ、と。
 一、或る人が最上乗(密教)とは何かと質問した。予が言うには、身を好き勝手に振る舞って、守ることが無いことをいうのだ。だからこそ重大である。そのようであるから、世に(最上乗を究めた人は)まれなのである。
    『即心記』、『至道無難禅師集』14頁、拙僧ヘタレ訳

大乗と最上乗の違いだそうです。なるほどと納得してしまいたくなります。両方とも、守ることが無いといっていますが、これはいわゆる無常・無我の徹底だといえます。しかし、その(多分、前後の)プロセスが違っていて、大乗は「身を正す」としており、最上乗は「身を好き勝手に振る舞う」としています。

まぁ、左道密教は極端な例ですが、それでもやっぱり、どこか密教って何でもありなところがありまして、それと大乗は違っているということのようです。まぁ、大乗も日本の現状ばかり見ていると、とんでもないような集団に見えるのかもしれませんし、その評価は外れていませんが、それでも、六波羅蜜の修行(六度万行とか言いますな)でありますとか、それなりに戒律もあったりして、一応、「身を正す」ことについては、求められているわけです。

ところが、ここでいきなりオウム真理教と結びつけると、怒り出しそうな人がいるので、それはちょっと止めておきますけれども、密教というのは、とにかくあらゆる事象をいったん否定してみて、その先にある自性清浄心が目覚めて来るよっていう教えだと、拙僧はかなり乱暴な理解をしているのですが、絶対否定を経た絶対肯定の絶対幸福というのが密教であろうと思うわけです。

だから、自分の威儀や戒を調えるなんていうのは、結局、自分を否定し切れていないということになるわけですね。社会の通念だとか、常識だとか、思想や哲学、全部ダメ。そういうのをちょっとでも介在させると、そこに人は必ず、「自意識」を混入させています。

本当に自意識からの抑圧を解放すると、そこに自性清浄心が顕れる、はずです。いや、拙僧分かるわけ無いです。一応、禅宗とはいえ、大乗仏教ですからね。「身を正しく」はしなきゃダメなんですよ。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15762

Trending Articles