今日は「開炉の日」ですが、一般の方には見慣れない表現であろうかと思います。そこで、次のような差定があります。
朔日(=1日)粥後、僧堂礼賀の時、住持の入堂前に、維那、堂司行者に命じ、炉に火を活し、侍聖、聖僧前に三供を改め備ふ。住持入堂し、法語唱了て、焼香礼拝、礼賀巡堂、出堂の後、大衆方丈に再上て開炉の祝賀す。
面山瑞方師『洞上僧堂清規行法鈔』巻三・年分行法
つまり、これは、寒くなってきたので、僧堂などに、ストーブ(炉)を開いて、暖かくするというのが今日からだということです。現在ではまだ10月初日には、それほど寒くはないですけれども、現在の暦では、だいたい1か月ずれて11月初日ということになりますが、ここまで来ると、それなりに気温が下がっていますよね。関西では既に「木枯らし1号」が吹いたようですし、東日本でも近日中でしょう。
さて、今日は道元禅師が開炉の日に行った上堂を見ながら、このストーブを使うということに、どのような宗教的意義を見出しているかを学んでいきましょう。
開炉の上堂。
春に先だつ桃李華、開発。衲子、拈来して火炉と作す。
暖処の商量は瞌睡すと雖も、怜れむ可し百丈、功夫を枉げたるを。
『永平広録』巻4-288上堂
この上堂は、宝治2年(1248)10月1日に行われたと推定されています。
開炉の日はまだ冬に当たりますので、春では無いわけですが、炉を開いて、そこに悟りである「桃李華」が咲いたわけです。冬の中に、春の悟りが開いているのです。そして、修行僧達は、それを持って来て火炉としました。まさに火炉は、ただ修行僧達を暖め(とはいえ、現代の大きなストーブというほど効き目があるわけでは無いのですが)、同時に中には赤々とした炎が立ちます。この炎こそ、諸仏説法の道場=火炎裏なので、それはまさに悟りそのものだともいえるのです。
ただし、暖かなところでの商量(=公案の参究)は、眠りを呼ぶことがありますけれども、道元禅師は、百丈懐海禅師が、功夫を枉げて、それはつまり方便を垂れて修行僧を接化したことを怜(あわ)れむべきだとしています。この場合の「怜」の「あわれ」とは、いわゆる悲しいことや慈悲を意味するのでは無くて、讃歎・賞賛を意味しています。要するに、百丈禅師の方便を讃歎するように、よく学ぶことを促しているのです。その故事は以下の通りです。
大潙、百丈に在りて典座と作る。一日、方丈に上り侍立す。
百丈問う、「阿誰ぞ」。
山曰く、「霊祐」。
百丈云く、「汝、炉中を撥け、火ありや」。
師撥いて云く、「火無し」。
百丈躬ら起ちて、深く撥いて少しき火を得、挙し以て之に示して云く、「此れは是れ火ならずや」。
師は発悟して礼謝し、其の解する所を陳ぶ。
百丈云く、「此れは乃ち暫時の岐路なるのみ。
経に曰く、『仏性を見んと欲せば、当に時節因縁を観ずべし』と。時節既に至らば、迷いの忽ちに悟るが如く、忘れしも忽ちに憶するが如く、方めて己の物の他従り得ざるを省る。
故に祖師の云く、『悟り了れば未だ悟らざるに同じ、無心にして無法を得』と。只だ是れ虚妄なる凡聖等の心無く、本来の心・法は元自り備足す。
汝、今既に爾り、善く自ら護持せよ」。
『永平寺知事清規』「典座の時大事を発明せし例」
道元禅師が、百丈の功夫と述べているのは、このことです。これは、弟子の潙山霊祐禅師を接化した様子です。百丈禅師が、潙山に対し、炉の中をかき混ぜて、火があるかどうかを探すように促します。潙山はちょっと探しますがすぐに諦めて「ありません」と答えました。百丈は、立ち上がると、炉を深くかき混ぜて、わずかに火が付いた燃えかすを見付けました。そして、「これは、火では無いのか?」と潙山に告げたのです。潙山は自らが過ちを犯したことに気付き、その因縁でもって悟りを開きました。
これは何を意味しているかといえば、後に続いた百丈禅師の言葉から理解出来ます。この場合、「炉中の火」とは「仏性」を意味しているのです。「仏性」は元々、仏になる可能性を意味する言葉です。しかし、凡夫は自嘲して、「オレは仏になんかなれない」といいます。潙山の元々の態度はそのようなものです。ところが、百丈は根気強く探すこと(これは修行も意味します)によって、必ず仏性が見付かり、それによって悟りを開き、仏になることが出来ると示したのです。
それがまさに、「時節因縁を観ず」ということです。潙山は、百丈の方便によって、まさにその「時節因縁」を観じ、仏性を見付けることが出来たのです。その仏性とは、自分の外にあるのではありません。方便によってであっても、必ず、自らに具わりたるものとして見付かるのです。百丈禅師の提唱は、そのことを示すのみです。そして、道元禅師がこの故事を引いたのは、まさに弟子達に審細なる功夫・参究を求めたからなのです。
仏道への参究、是非とも毎日欠かさず行いたいものです。
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朔日(=1日)粥後、僧堂礼賀の時、住持の入堂前に、維那、堂司行者に命じ、炉に火を活し、侍聖、聖僧前に三供を改め備ふ。住持入堂し、法語唱了て、焼香礼拝、礼賀巡堂、出堂の後、大衆方丈に再上て開炉の祝賀す。
面山瑞方師『洞上僧堂清規行法鈔』巻三・年分行法
つまり、これは、寒くなってきたので、僧堂などに、ストーブ(炉)を開いて、暖かくするというのが今日からだということです。現在ではまだ10月初日には、それほど寒くはないですけれども、現在の暦では、だいたい1か月ずれて11月初日ということになりますが、ここまで来ると、それなりに気温が下がっていますよね。関西では既に「木枯らし1号」が吹いたようですし、東日本でも近日中でしょう。
さて、今日は道元禅師が開炉の日に行った上堂を見ながら、このストーブを使うということに、どのような宗教的意義を見出しているかを学んでいきましょう。
開炉の上堂。
春に先だつ桃李華、開発。衲子、拈来して火炉と作す。
暖処の商量は瞌睡すと雖も、怜れむ可し百丈、功夫を枉げたるを。
『永平広録』巻4-288上堂
この上堂は、宝治2年(1248)10月1日に行われたと推定されています。
開炉の日はまだ冬に当たりますので、春では無いわけですが、炉を開いて、そこに悟りである「桃李華」が咲いたわけです。冬の中に、春の悟りが開いているのです。そして、修行僧達は、それを持って来て火炉としました。まさに火炉は、ただ修行僧達を暖め(とはいえ、現代の大きなストーブというほど効き目があるわけでは無いのですが)、同時に中には赤々とした炎が立ちます。この炎こそ、諸仏説法の道場=火炎裏なので、それはまさに悟りそのものだともいえるのです。
ただし、暖かなところでの商量(=公案の参究)は、眠りを呼ぶことがありますけれども、道元禅師は、百丈懐海禅師が、功夫を枉げて、それはつまり方便を垂れて修行僧を接化したことを怜(あわ)れむべきだとしています。この場合の「怜」の「あわれ」とは、いわゆる悲しいことや慈悲を意味するのでは無くて、讃歎・賞賛を意味しています。要するに、百丈禅師の方便を讃歎するように、よく学ぶことを促しているのです。その故事は以下の通りです。
大潙、百丈に在りて典座と作る。一日、方丈に上り侍立す。
百丈問う、「阿誰ぞ」。
山曰く、「霊祐」。
百丈云く、「汝、炉中を撥け、火ありや」。
師撥いて云く、「火無し」。
百丈躬ら起ちて、深く撥いて少しき火を得、挙し以て之に示して云く、「此れは是れ火ならずや」。
師は発悟して礼謝し、其の解する所を陳ぶ。
百丈云く、「此れは乃ち暫時の岐路なるのみ。
経に曰く、『仏性を見んと欲せば、当に時節因縁を観ずべし』と。時節既に至らば、迷いの忽ちに悟るが如く、忘れしも忽ちに憶するが如く、方めて己の物の他従り得ざるを省る。
故に祖師の云く、『悟り了れば未だ悟らざるに同じ、無心にして無法を得』と。只だ是れ虚妄なる凡聖等の心無く、本来の心・法は元自り備足す。
汝、今既に爾り、善く自ら護持せよ」。
『永平寺知事清規』「典座の時大事を発明せし例」
道元禅師が、百丈の功夫と述べているのは、このことです。これは、弟子の潙山霊祐禅師を接化した様子です。百丈禅師が、潙山に対し、炉の中をかき混ぜて、火があるかどうかを探すように促します。潙山はちょっと探しますがすぐに諦めて「ありません」と答えました。百丈は、立ち上がると、炉を深くかき混ぜて、わずかに火が付いた燃えかすを見付けました。そして、「これは、火では無いのか?」と潙山に告げたのです。潙山は自らが過ちを犯したことに気付き、その因縁でもって悟りを開きました。
これは何を意味しているかといえば、後に続いた百丈禅師の言葉から理解出来ます。この場合、「炉中の火」とは「仏性」を意味しているのです。「仏性」は元々、仏になる可能性を意味する言葉です。しかし、凡夫は自嘲して、「オレは仏になんかなれない」といいます。潙山の元々の態度はそのようなものです。ところが、百丈は根気強く探すこと(これは修行も意味します)によって、必ず仏性が見付かり、それによって悟りを開き、仏になることが出来ると示したのです。
それがまさに、「時節因縁を観ず」ということです。潙山は、百丈の方便によって、まさにその「時節因縁」を観じ、仏性を見付けることが出来たのです。その仏性とは、自分の外にあるのではありません。方便によってであっても、必ず、自らに具わりたるものとして見付かるのです。百丈禅師の提唱は、そのことを示すのみです。そして、道元禅師がこの故事を引いたのは、まさに弟子達に審細なる功夫・参究を求めたからなのです。
仏道への参究、是非とも毎日欠かさず行いたいものです。
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