以前、【「達摩」の伝記について】で紹介したように、禅宗の初祖とされる菩提達磨の伝記は『唐高僧伝』を嚆矢としますけれども、『唐高僧伝』は、別に『続高僧伝』と呼ばれるように、その前に『高僧伝(作者が梁の人だったので『梁高僧伝』ともいう)』があります。その『高僧伝』にも「習禅篇」があるわけですが、この僧達は、或る意味【禅宗以前の禅僧達】に相当します。
語義としての「習禅」ですけれども、いわゆる坐禅に当たるわけですが、「禅定を習う」という言葉の通り、智慧を得たり、浄土への往生を期して行われる善行の1つとして位置付けられています。よって、後の坐禅さえしていれば、一切全てが契うというような、黙照禅的な曹洞禅とは一線を画します。実際に、日本曹洞宗の高祖・道元禅師は、『正法眼蔵』「行持(下)」巻にて、達磨が『続高僧伝』「習禅篇」に数えられたことを批判しています。
さて、『高僧伝』の作者である慧皎は「習禅篇」の末尾に、一篇の解題的文章を付けていますが、その中に次のようにあります。
仏が遺された教えが当方の中国に伝えられて以後、禅道も教授された。まず先だっては安世高と竺法護が禅経を訳出し、僧光や曇猷たちがそろってその教えに従って心を修養し、ついに立派な修行を成し遂げた。それ故、心の中では喜怒哀楽の感情を超越し、外に対しては不吉を挫き、重畳たる巌において化け物を退け、切り立った石の中で禅僧の姿を見ることができたのである。
沙門の智厳がわざわざ西域の地を踏み、鋤A賓の禅師の仏駄跋陀を招いてあらためて禅業を東土に伝えるに及んで、玄高や玄紹たちもやはりそろって親しくその方法を授かり呼吸の出入には数、随の、往復には還、浄のテクニックを窮め尽くした。その後、僧周、浄度、法期、慧明たちもまた彼らの後につづいた。
岩波文庫本『高僧伝(四)』106〜107頁、段落は拙僧
これを見ますと、中国での「禅僧」の系譜は、まず始めに「禅経」の訳出が行われたことに因むことが分かります。「禅経」というのは、禅法(坐法・呼吸法)について記した文献であり、岩波文庫本1・2巻に収録された「訳経篇」に収録される安世高の伝記を見ると『安般守意経』を訳出したことで知られ、また竺法護(竺曇摩羅刹)は夥しい数の経典を翻訳していますが、『出三蔵記集』の記録も既に、混乱が見えるようなので、どこまで本当か分かりません。しかし、それとして禅経と分かるのは、安世高も訳したという『道地経』がそれに当たるということでしょうかね。『般舟三昧経』も訳出されたようですね。これも、瞑想法に関わる経典です。
ということで、ここから中国に禅の流れが入ってきたことになります。無論、実際のところは、中国には中国の瞑想法がありますし、この経典が来る前に素朴な瞑想法も来ていたことでしょう。あくまでも、経典の訳出は体系化された修行の伝来という意味になります。
さて、禅というのは、ただ経典を読み、そこから方法論だけを知っても意味はありません。正しき師匠(正師)が必要になります。いざ、修行を進めていっても、正邪を自分だけで判断することは困難です。よって、中国でも、徐々にこの禅の流れが世代化していったとき、途中でインドから正統なる禅の教えを伝える必要があったと感じられたようです。そこで招かれたのが、仏駄跋陀です(『高僧伝』「訳経篇」にその伝記が見えます)。この僧は、一応中国にて、鳩摩羅什などと議論し、その正しき智慧を明らかにしたということもありますので、「訳経篇」に数えられますが、自身の行いは清浄で、鋤A賓国では優れた長老として尊崇されていました。
よって、智厳が優れた指導者を捜しに行った時、仏駄跋陀にお願いをして、中国に来て貰ったのです。日本では、鑑真和上などを始め、中国から多くの仏教指導者を招きましたが、中国でも仏教が定着するまでは、同じようなことを繰り返していたことが分かります。やはりそれは、戒律の実践や禅定の実践などでは、先駆者がどうしても必要とされるからです。
なお、『高僧伝』「習禅篇」を見ていくと、既に「師資相承」が見えます。これは、ただ経典を学ぶだけの人には理解出来ないでしょうが、いわゆる禅定家の世代化(系譜化)は、インド以来の必然です。中国でもそれが起きています。それから、これは編者の慧皎という人の特質なのかもしれませんが、禅定家の実態には迫り切れていないような印象を受けます。つまり、修行を、坐禅や、禅法という曖昧な表現に留め、その時に具体的に行っていた修行法を述べていないことが挙げられます。この辺、『続高僧伝』はやや改善がされているように思うので、禅定の系譜の原初を探る意図を持つ拙僧としては、残念なわけです。
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語義としての「習禅」ですけれども、いわゆる坐禅に当たるわけですが、「禅定を習う」という言葉の通り、智慧を得たり、浄土への往生を期して行われる善行の1つとして位置付けられています。よって、後の坐禅さえしていれば、一切全てが契うというような、黙照禅的な曹洞禅とは一線を画します。実際に、日本曹洞宗の高祖・道元禅師は、『正法眼蔵』「行持(下)」巻にて、達磨が『続高僧伝』「習禅篇」に数えられたことを批判しています。
さて、『高僧伝』の作者である慧皎は「習禅篇」の末尾に、一篇の解題的文章を付けていますが、その中に次のようにあります。
仏が遺された教えが当方の中国に伝えられて以後、禅道も教授された。まず先だっては安世高と竺法護が禅経を訳出し、僧光や曇猷たちがそろってその教えに従って心を修養し、ついに立派な修行を成し遂げた。それ故、心の中では喜怒哀楽の感情を超越し、外に対しては不吉を挫き、重畳たる巌において化け物を退け、切り立った石の中で禅僧の姿を見ることができたのである。
沙門の智厳がわざわざ西域の地を踏み、鋤A賓の禅師の仏駄跋陀を招いてあらためて禅業を東土に伝えるに及んで、玄高や玄紹たちもやはりそろって親しくその方法を授かり呼吸の出入には数、随の、往復には還、浄のテクニックを窮め尽くした。その後、僧周、浄度、法期、慧明たちもまた彼らの後につづいた。
岩波文庫本『高僧伝(四)』106〜107頁、段落は拙僧
これを見ますと、中国での「禅僧」の系譜は、まず始めに「禅経」の訳出が行われたことに因むことが分かります。「禅経」というのは、禅法(坐法・呼吸法)について記した文献であり、岩波文庫本1・2巻に収録された「訳経篇」に収録される安世高の伝記を見ると『安般守意経』を訳出したことで知られ、また竺法護(竺曇摩羅刹)は夥しい数の経典を翻訳していますが、『出三蔵記集』の記録も既に、混乱が見えるようなので、どこまで本当か分かりません。しかし、それとして禅経と分かるのは、安世高も訳したという『道地経』がそれに当たるということでしょうかね。『般舟三昧経』も訳出されたようですね。これも、瞑想法に関わる経典です。
ということで、ここから中国に禅の流れが入ってきたことになります。無論、実際のところは、中国には中国の瞑想法がありますし、この経典が来る前に素朴な瞑想法も来ていたことでしょう。あくまでも、経典の訳出は体系化された修行の伝来という意味になります。
さて、禅というのは、ただ経典を読み、そこから方法論だけを知っても意味はありません。正しき師匠(正師)が必要になります。いざ、修行を進めていっても、正邪を自分だけで判断することは困難です。よって、中国でも、徐々にこの禅の流れが世代化していったとき、途中でインドから正統なる禅の教えを伝える必要があったと感じられたようです。そこで招かれたのが、仏駄跋陀です(『高僧伝』「訳経篇」にその伝記が見えます)。この僧は、一応中国にて、鳩摩羅什などと議論し、その正しき智慧を明らかにしたということもありますので、「訳経篇」に数えられますが、自身の行いは清浄で、鋤A賓国では優れた長老として尊崇されていました。
よって、智厳が優れた指導者を捜しに行った時、仏駄跋陀にお願いをして、中国に来て貰ったのです。日本では、鑑真和上などを始め、中国から多くの仏教指導者を招きましたが、中国でも仏教が定着するまでは、同じようなことを繰り返していたことが分かります。やはりそれは、戒律の実践や禅定の実践などでは、先駆者がどうしても必要とされるからです。
なお、『高僧伝』「習禅篇」を見ていくと、既に「師資相承」が見えます。これは、ただ経典を学ぶだけの人には理解出来ないでしょうが、いわゆる禅定家の世代化(系譜化)は、インド以来の必然です。中国でもそれが起きています。それから、これは編者の慧皎という人の特質なのかもしれませんが、禅定家の実態には迫り切れていないような印象を受けます。つまり、修行を、坐禅や、禅法という曖昧な表現に留め、その時に具体的に行っていた修行法を述べていないことが挙げられます。この辺、『続高僧伝』はやや改善がされているように思うので、禅定の系譜の原初を探る意図を持つ拙僧としては、残念なわけです。
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