なんか、マヤ文明の天体観測の関係で、2012年12月21日に人類(地球?)が滅ぶとかいう話があったらしい。いやまぁ、どうせ、オカルトじみた話だし、その根拠は一体何だ?とか思うのだが、そういうオカルト話が好きな人、終末思想が好きな人たちが盛り上がっていたらしい。とはいえ、こういう終末論の質の悪いところは、万が一これに因んで、「教祖」も一緒に予言していた場合、それが実現しないと、信者が自殺したり、逆にテロを起こしたりすることであろう。日本でも、終末論的発想をした宗教者がいたし、今でもいるようなので、注意が必要である。
・「終末の日」で休校相次ぐ、米ミシガン州 銃乱射事件が影響(AFP=時事)―Yahoo!ニュース
こんなニュースもあったが、こんなことって・・・もし終末が事実だったのなら、拙ブログも昨日までということになっていた。いやまぁ、それ以前に本人もだろ?とかいう状況ではあるが、無事に乗り切った可能性が高い?ここまで来たら、今後も終末論が来るかも知れないので、万が一のために宗教的な退避の方法を考えておくこととしたい。
・マヤの次は2014年『ユダヤの終末論』が存在することが判明(週刊SUNDAY)
ほら、もう既に、ネット上ではこんな記事さえある。よって、我々仏教徒的にどうやって助かろうか?と考えてみる。
神通力是の如し 阿僧祇劫に於て
常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり
衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し
曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず
我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて
憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る
是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て
阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず
諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は
則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る
或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く
『妙法蓮華経』「如来寿量品偈」
喩え、我々の世界が破壊され、或いは我々の命が無くなるような時でも、この偈文の通りであれば、何の心配も要らないのである。我々にとっての世尊=釈迦牟尼仏は、常に霊鷲山などにおられるのである。そして、その仏陀がおられる場所(=我が此の土)は、安穏だという。そして、仏陀の周りには、麗しき姿の天人が大勢いて、建物も宝物で荘厳されているという。しかも、木々には多くの実がなって、衆生が大いに遊び、良い音楽や良い花々が天から降ってくるのである。
ところで、問題はこの「浄土の他の地域」についてである。どうも、先の本文を読むと、「衆は焼け尽きて」とあるので、全くダメになってしまうらしい。『妙法蓮華経』の怖さはここである。いや、誹謗するのとは全く違うのだが、同経は敬い、従っていれば、基本的には最高級の功徳が来る。もし、逆らうと、最大級の罰を被る。その辺の善悪の報いがハッキリした経典だということである。
この場合の「善行」とは、この一品の内容をよくよく検討すれば、仏陀がクシナガラにて80歳で入滅されたのは、元々方便であり、よって、仏陀に会いたいと一心に願い、不惜身命の修行を行う時、霊鷲山にて相見することが可能だ、という話である。だからこそ、仏陀は、「仏寿無量」と説くわけである。これが、「如来寿量品」の真意といえる。いつも、ここを思う時、以前、【セレンディピティとしての阿弥陀仏】で紹介した、無量寿仏としての阿弥陀というのは、大乗仏教徒にとって、念願のことだったのだろうと思うわけである。
入滅された仏陀に会いたくて仕方ない、だが、眼前にはいない、よって、瞑想して、念を凝らして仏陀のお身体を見奉ることを目的に修行したとき、眼前に現れた仏陀には、「無量寿」といいたかったに違いないと思っているのである。仏身が無量寿なら、浄土も無量寿のようで、ここなら世間でどれだけ終末論を語っても、関係無いので大丈夫。まさに、霊山浄土様々である。ただ、誰でも行けるわけではない、というのが悩ましいところだが。
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・「終末の日」で休校相次ぐ、米ミシガン州 銃乱射事件が影響(AFP=時事)―Yahoo!ニュース
こんなニュースもあったが、こんなことって・・・もし終末が事実だったのなら、拙ブログも昨日までということになっていた。いやまぁ、それ以前に本人もだろ?とかいう状況ではあるが、無事に乗り切った可能性が高い?ここまで来たら、今後も終末論が来るかも知れないので、万が一のために宗教的な退避の方法を考えておくこととしたい。
・マヤの次は2014年『ユダヤの終末論』が存在することが判明(週刊SUNDAY)
ほら、もう既に、ネット上ではこんな記事さえある。よって、我々仏教徒的にどうやって助かろうか?と考えてみる。
神通力是の如し 阿僧祇劫に於て
常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり
衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し
曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず
我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて
憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る
是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て
阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず
諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は
則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る
或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く
『妙法蓮華経』「如来寿量品偈」
喩え、我々の世界が破壊され、或いは我々の命が無くなるような時でも、この偈文の通りであれば、何の心配も要らないのである。我々にとっての世尊=釈迦牟尼仏は、常に霊鷲山などにおられるのである。そして、その仏陀がおられる場所(=我が此の土)は、安穏だという。そして、仏陀の周りには、麗しき姿の天人が大勢いて、建物も宝物で荘厳されているという。しかも、木々には多くの実がなって、衆生が大いに遊び、良い音楽や良い花々が天から降ってくるのである。
ところで、問題はこの「浄土の他の地域」についてである。どうも、先の本文を読むと、「衆は焼け尽きて」とあるので、全くダメになってしまうらしい。『妙法蓮華経』の怖さはここである。いや、誹謗するのとは全く違うのだが、同経は敬い、従っていれば、基本的には最高級の功徳が来る。もし、逆らうと、最大級の罰を被る。その辺の善悪の報いがハッキリした経典だということである。
この場合の「善行」とは、この一品の内容をよくよく検討すれば、仏陀がクシナガラにて80歳で入滅されたのは、元々方便であり、よって、仏陀に会いたいと一心に願い、不惜身命の修行を行う時、霊鷲山にて相見することが可能だ、という話である。だからこそ、仏陀は、「仏寿無量」と説くわけである。これが、「如来寿量品」の真意といえる。いつも、ここを思う時、以前、【セレンディピティとしての阿弥陀仏】で紹介した、無量寿仏としての阿弥陀というのは、大乗仏教徒にとって、念願のことだったのだろうと思うわけである。
入滅された仏陀に会いたくて仕方ない、だが、眼前にはいない、よって、瞑想して、念を凝らして仏陀のお身体を見奉ることを目的に修行したとき、眼前に現れた仏陀には、「無量寿」といいたかったに違いないと思っているのである。仏身が無量寿なら、浄土も無量寿のようで、ここなら世間でどれだけ終末論を語っても、関係無いので大丈夫。まさに、霊山浄土様々である。ただ、誰でも行けるわけではない、というのが悩ましいところだが。
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