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損翁禅師と宗統復古運動6(ニュー或る僧の修行日記6)

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江戸時代初期の曹洞宗が輩出した傑僧、損翁宗益禅師が「宗統復古運動」をどう判断しておられたかを見ていく連載内連載記事です。

 仙台中興寺・愚肝東堂。
 龍泉寺某甲東堂。
 大安寺霊淵東堂。
 香林寺興禅東堂。
 龍灯院大灯東堂。
 秀麓斎某甲東堂
 米沢某寺普峰東堂。
 剃度上首益信東堂。
 甲州達玄東堂。
 上州舘林朝瑞長老。
 勢州松坂鎮照長老等、ともにお師匠様より法を得た者であり、余も面識がある者である。或いは、師に先立って入寂する者もいたが、余が記憶していないため、ここには並べなかった。上に挙げた者の多くは、俗年齢が、師を超えている者もいる。しかし、ただひとすじに、師の大知見に帰伏して、或いは、一言一句の下に、生涯を終え、或いは一夏一年の間に法味に飽満し、師を頂戴し奉ることを尽未来際まで続けることを誓う者である。世に多く見える、威勢が良い者の情熱に負けて(法を)嗣いだり、或いは俗世での繋がりを重視して嗣ぐような者とは違うのである。
 お師匠様は、常に弟子達に示されるには、「師資面授とは、私が法を説き、汝が法を聞くが、説くところ、聞くところは箱とフタがピッタリ1つに合うように、矢尻と矢尻とが空中でぶつかってお互いに支え合って回避するところが無いようなものである。
 そして、その法とは、全く自己の身心のみであり、どうして他より得ることがあろうか。これを、「授」と名付けるのである。『嗣書』などの三物を授けるのは、ただ面授の証拠ということである。しかし、法理を師から得ずに、ただ三物のみを持っている者は、世の人が財法が無いのに、ただその権利書だけを握るようなものである。そなた等は、後々にも、権利書だけを握って、財宝であるとしてはならない。大事だぞ、大事だぞ」と。
    面山瑞方師『見聞宝永記』、訳及び下線は拙僧

実は、今回ので連載内連載は終わってしまうのですが、最後に相応しく、損翁禅師が「嗣法」と「嗣書(三物)」との関係をどのように考えておられたかを検証してみたいと思います。曹洞宗では、特に江戸時代に於いては、この両者の関係をどのように理解するかで、随分と論争が繰り返されました。まず、前者に重きを置く人に於いては、嗣法及びその条件としての大悟(見性)に力点を置き、その中で後者を軽視するという議論を行った人がいました。一方で、後者の授受を重く採って議論する人は、「悟未悟を論ぜず」という立場に於いて、前者を軽視するという議論を行った人がいました。

その議論を行っていた、まさにその時には大変に大きな問題で、どちらが重いのか?というのは、重大なことだったのでしょうか、今それらの議論を見てみると、結局両方とも本来必要で、どちらが大事?という議論からは、有益な解答が出てくるはずもないと出来るわけです。実際に、損翁禅師の説示を見てみると、とっくに、どちらが大事?という話ではなくて、どちらも大事、むしろ、両者は相補的関係にあることを説いています。いや、ややもすると「嗣法」と、その条件を満たす方が大事に思っているとすら見ることが可能です。

特に下線部をご覧いただきたいのですが、嗣法をしていただく際に、弟子の側からどのように師を選ぶかについて、大変に重大な問題点が呈されています。この問題は、『正法眼蔵』を拝読する限りに於いて、道元禅師の時代からとっくに表面化していることであり、無論、現在でも決して少ない問題ではありません。それはつまり、弟子が師を選ぶ際に、その時代で有名な人を捜してしまう問題であり、なるほど、その師は優れているから有名なのかもしれませんが、ただ有名な人の場合もあるわけで、面山師はその問題を指摘していると出来ましょう。仮想敵は、黄檗宗か?月舟・卍山か?

また、面山師の指摘の後者は、既に指摘した【芋掘り僧】の逆のパターンだといえましょう。或いは、現在まで繋がる寺院相続問題に関連しています。全く縁の無い人に渡してしまうと、自分が否定されてしまうような気がして、中々寺院住職の立場を手放せず、結果的に親類から探して探して、誰かに嗣がせるのです。逆に、それを期待して、弟子の側でも親類から師を選んだことがあったのでしょう。無論、両者ともに、本義の嗣法ということからは、遠くなってしまいます。

さて、損翁禅師の教えに話を戻しますが、損翁禅師は、法を説き、それを弟子が聞きますが、それは本来具わっている法の事実に契うだけであり、何か別のところに法の事実があるのではないとしています。よって、自己の身心から、脱落して法に目覚めること、それを「授」というのであり、その授に気付いた者を証明して、『嗣書』が授けられるのです。よって、先に指摘したように、「嗣法」と「嗣書」との対立がありません。更にいえば、得法をせずに『嗣書』だけ貰っても、運転できないのに「免許証」を貰うようなもので、その後実際に運転しても「事故」を発すことは明白です。

よって、事故を起こすくらいなら、その前からよくよく学んでおいた方が良い……拙僧の如き若僧が偉そうにいうべきことではないと知っておりますが、拙僧自身そうありたいと思い、敢えて申し上げます。

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