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無住道曉『沙石集』の紹介(11e)

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前回の【(11d)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節で、先月の記事の続きになります。

 何かにつけ、この道理があるのである。
 老子がいうには「災いは幸せが隠れる場所であり、幸せは災いの寄る辺である」という心は、人は過ちによって慎み悔やんで、善行を修して徳行を行えば、災いが除かれて、幸せが来るのである。
 また、幸せを誇って、悪事を行えば、必ず幸せが去って災いが来るのである。
 そうであれば、過ちを慎んで遠ざかり、得意なことでも誇ることを止めて、災いが来ることを怖れるべきである。何ごとであっても、得失が共に並んでくることを知らずに、わずかな得を得だと知って、多くの過ちを忘れ、わずかな過ちを過ちだと知って、その得を知らない。得だけあって過ちが無いことはなく、過ちのみあって、得が無いことはない。或いは、1つのことを、或る人は得だと見、或る人は過ちだと見ることもある。或いは、得が多いことを得だとし、過ちが多いことを過ちだとすることもある。或いは、世間では得でも、出世には過ちとなる。仏法には得でも、世間法では過ちだということもある。
 これらの道理をよくよく知り分けて、得失を明らかにすれば、得には過ちがあることを知り、強引に愛したり、喜んだりしてはならない。過ちには得があることを弁えて、大いに嫌い、嘆いてはならない。
    拙僧ヘタレ訳

まず、引用文冒頭の「この道理」というのは、「人間万事塞翁が馬」の故事です。『淮南子』に収録される説話を、無住道曉も引用していたことが分かります。なお、『淮南子』というのは、漢帝国で中央が儒教に傾いていた時代に、敢えて南方で道教的な思想影響の元に書かれたものとされています。よって、ここで無住が引用しているように、老荘思想との関わりが強く出ている文献ということになります。

無住がここで引いた老荘思想というのは、現実に於ける吉凶が、お互い相補的関係になっていることを前提にした文言です。幸せの中に不幸が入り、不幸の中に幸せが入るという考え方であり、幸・不幸の両方とも永続するような発想には至らないというものです。ただ、無住はここから或る種の「倫理性」を取り出しています。それは、幸せであっても調子に乗らずにいるべきだというものであり、一方で不幸であっても善行を修しておけば、必ず幸せが来るとしているのです。

なお、ここで留まってしまうと、老荘思想と仏教の一部を同じものと考える発想(三教一致思想)で終わってしまうわけですが、更に無住は筆を進めて、仏道に特有の思想領域を取り出そうとしています。それは、「得失」の問題です。結局のところ、道教的思想の範囲では、やはりまだ「世間」の思考にて終わってしまいます。それは、分別を、最終的には無くすように心掛けても、結局は、得失という枠組み自体の中で考えてしまっているということです。

しかし、仏教は違います。無住は、少なくともこの記事ではそこまで突き詰めていませんが、仏教とは、絶対的理法に依って思考し、そして、大乗仏教には「空観」がありますから、この空観の中では、得も失も無いという発想にまで突き詰めてしまいます。

覚達の真人得失を泯じ、明心の大士空虚を脱す。
    『永平広録』巻10-偈頌11

このように、道元禅師は能く法の道理を悟られた真実の人は、得失を無くしてしまっていると説かれています。かといって、空虚に堕しているわけではないのです。また、『正法眼蔵』「四禅比丘」巻は、道元禅師にとって三教一致思想批判の巻として知られていますけれども、そこでは得失や是非が全て「自然のままに」と説く荘子へ批判を寄せ、まさに仏教の基本である因果歴然の道理を知らないとしています。

方便としては、無住のように得失を残して発想することも悪くはないですが、しかし、真実のあり方をよくよく弁えた上で用いなければ、仏教に似ていると誤解して、全く異なる発想をしていく危険性もあるわけで、この辺は気を付けたいところです。ただ、繰り返しになりますが、この無住の教えは方便です。しかも、無住の目的は、この善悪・得失の道理を説くことで、一定の「倫理性」を持ち出そうとしているわけです。その点からすれば、別に無住が間違っているとはいえません。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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