これまでも、節分には関連記事をアップしているのですが、今年も節分に関する雑学などを交えて記事にしていきたいと思います。本来、節分というのは、季節が移り変わる暦日になる、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの「前の日」を意味します。今回の場合は、明日が立春ですから、暦の上では春になるわけです。その意味では、“節分”とは1年に4回有るはずなのに、いつのまにか“春”だけが尊重されるようになりました。なお、立春というのは、旧暦の場合1月1日の新年と同時にやってくる場合が多かったようです(厳密にいえば、1年に2回ある場合もあった)。曹洞宗の太祖瑩山紹瑾禅師は、このように仰っています。
今夜、節分の除夜に当たり、明朝、歳旦立春。
『洞谷記』「元応二年(1320)庚申除夜小参」
今日の夜には、柊の枝に鰯の頭を指したモノを戸口に立てて、鬼打ち豆(炒った大豆)を撒きます。豆はなんでも良いと判断して落花生などを使うところもありますが、本来は炒った大豆ですので、一応従いましょう。或る調査結果では、「落花生」を使うのは、北海道・東北、そして新潟県辺りで顕著だそうで、それ以外ではほとんどが大豆を使うそうです。ただ、他の地域でも徐々に落花生が拡大傾向にあるということです。その理由としては、一度地面に落ちても食べられるという安心感があるみたいです。大豆をそのまま撒くと、いわゆる「3秒ルール」でも適用できれば落ちても大丈夫なんでしょうけど、そうじゃないとちょっと微妙な感じになりそうです。特に、玄関とか、外に落ちた豆は、口に運ぶのは勇気が要りそうです。なお、各地にて様々な言い伝えはあるそうですが、年齢よりも一粒多く豆を食べると、その年1年無病息災で過ごせるともされています。また、豆を煎って使うのは、それが床や地面に落ちた時、発芽しないようにしておくためだという合理的見解もあります。
とはいえ、煎った大豆を鬼打ち豆に使う理由としては、この「煎る」という作業に、重要な意味があります。大豆を煎ったことがある人は分かると思いますが、派手に「パンパン」って音が出ます。この「音」が、鬼に対して効くそうです(眼に見えない相手には、音で対処するわけです)。また、大豆以外の様々な豆は、それほど音がしないそうです。よって、豆を撒いたときにも「カラカラ」等の音がしますが、これも重要な要素です。
最近では、「節分の鬼」についてもキャラクター化されて、鬼のお面を付けた人などを狙ったりします(余り派手には当てないでください。危険です)が、本来の「鬼」は『万葉集』の時代では「モノ」と発音しており、直接言うことを避けなければならないほどの超自然的な、恐ろしい存在だとされていました。また、「オニ」という存在は、本来形を見せない存在でした。形が出来たのは、仏教によって輸入された「鬼神」の存在が大きいとされています。仏教は、日本に「神(仏)の形」を持ち込んだわけです。日本では元々、神の形を描いたり、造形物に写し取るような作業は行っておりませんでした。しかし、日本に於ける朝鮮からの仏教伝来は、仏像とともに行われました。したがって、その影響で日本の神・鬼にも形が出来たのです。
ところで、最近では「恵方巻き」なんていう習慣も、徐々にコンビニの販促によって定着しつつありますが、古来、節分にはどのようなことをしていたのでしょうか?禅宗寺院の状況ですが、江戸時代のものであれば以下のようなことが伝わっています(なお、日本で節分に豆を撒くという習慣を始めたのは、北九州市門司にある曹洞宗寺院の玉泉寺さまだそうです)。
立春は年内新年節を考へ、前夜に逐鬼の経あり。仏前に三供(註:三具足のこと)、洗米を備へ、鳴鐘集衆、住持焼香。普門品・大悲・消災にて回向す。諷経の間に、監寺、諸堂へ攤鬼豆を撒しむ。諷経罷、方丈に礼茶、行盞の次に豆を行く。
面山瑞方師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3、カナをかなに改める
今の我々がやっている「豆まき」と同じです。江戸時代の段階で、禅宗寺院に節分の行持が入っていたことを理解できます。「逐鬼の経」というのが、まさに「鬼は外」のところです。「洗米」を供えているところからも、眼には見えない「鬼」を追い払わんとする意図が見えます。そして、豆まきは「監寺(監院)」が指揮していた仕事でした。確かに、様々な節句や季節の変わり目の行持で、特に「食料」が関係している場合などは、監寺が率先して、自分で仕事をするようにと、道元禅師も『知事清規』「監院」項で、指摘していますが、その理由は次の一節を思うべきなのでしょう。
監院は十方雲水の面を見る毎に、まず内心まさに喜躍観悦すべし。
『知事清規』
監院は、十方から集まる雲水の顔を見る毎に、大いなる喜びの心を起こすべきだというのです。しかし、ここでいう「雲水」とは、正信を持ち、道心溢れる修行僧のことです。同箇所では、この「正信」「道心」について、大きく採り上げています。ですので、監院は修行僧の身心の安寧、道心の堅固を願って自ら節句を始めとする1年の節目で修行僧のために、豆を撒き、くす玉を吊すなどして、力を尽くすのです。
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今夜、節分の除夜に当たり、明朝、歳旦立春。
『洞谷記』「元応二年(1320)庚申除夜小参」
今日の夜には、柊の枝に鰯の頭を指したモノを戸口に立てて、鬼打ち豆(炒った大豆)を撒きます。豆はなんでも良いと判断して落花生などを使うところもありますが、本来は炒った大豆ですので、一応従いましょう。或る調査結果では、「落花生」を使うのは、北海道・東北、そして新潟県辺りで顕著だそうで、それ以外ではほとんどが大豆を使うそうです。ただ、他の地域でも徐々に落花生が拡大傾向にあるということです。その理由としては、一度地面に落ちても食べられるという安心感があるみたいです。大豆をそのまま撒くと、いわゆる「3秒ルール」でも適用できれば落ちても大丈夫なんでしょうけど、そうじゃないとちょっと微妙な感じになりそうです。特に、玄関とか、外に落ちた豆は、口に運ぶのは勇気が要りそうです。なお、各地にて様々な言い伝えはあるそうですが、年齢よりも一粒多く豆を食べると、その年1年無病息災で過ごせるともされています。また、豆を煎って使うのは、それが床や地面に落ちた時、発芽しないようにしておくためだという合理的見解もあります。
とはいえ、煎った大豆を鬼打ち豆に使う理由としては、この「煎る」という作業に、重要な意味があります。大豆を煎ったことがある人は分かると思いますが、派手に「パンパン」って音が出ます。この「音」が、鬼に対して効くそうです(眼に見えない相手には、音で対処するわけです)。また、大豆以外の様々な豆は、それほど音がしないそうです。よって、豆を撒いたときにも「カラカラ」等の音がしますが、これも重要な要素です。
最近では、「節分の鬼」についてもキャラクター化されて、鬼のお面を付けた人などを狙ったりします(余り派手には当てないでください。危険です)が、本来の「鬼」は『万葉集』の時代では「モノ」と発音しており、直接言うことを避けなければならないほどの超自然的な、恐ろしい存在だとされていました。また、「オニ」という存在は、本来形を見せない存在でした。形が出来たのは、仏教によって輸入された「鬼神」の存在が大きいとされています。仏教は、日本に「神(仏)の形」を持ち込んだわけです。日本では元々、神の形を描いたり、造形物に写し取るような作業は行っておりませんでした。しかし、日本に於ける朝鮮からの仏教伝来は、仏像とともに行われました。したがって、その影響で日本の神・鬼にも形が出来たのです。
ところで、最近では「恵方巻き」なんていう習慣も、徐々にコンビニの販促によって定着しつつありますが、古来、節分にはどのようなことをしていたのでしょうか?禅宗寺院の状況ですが、江戸時代のものであれば以下のようなことが伝わっています(なお、日本で節分に豆を撒くという習慣を始めたのは、北九州市門司にある曹洞宗寺院の玉泉寺さまだそうです)。
立春は年内新年節を考へ、前夜に逐鬼の経あり。仏前に三供(註:三具足のこと)、洗米を備へ、鳴鐘集衆、住持焼香。普門品・大悲・消災にて回向す。諷経の間に、監寺、諸堂へ攤鬼豆を撒しむ。諷経罷、方丈に礼茶、行盞の次に豆を行く。
面山瑞方師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3、カナをかなに改める
今の我々がやっている「豆まき」と同じです。江戸時代の段階で、禅宗寺院に節分の行持が入っていたことを理解できます。「逐鬼の経」というのが、まさに「鬼は外」のところです。「洗米」を供えているところからも、眼には見えない「鬼」を追い払わんとする意図が見えます。そして、豆まきは「監寺(監院)」が指揮していた仕事でした。確かに、様々な節句や季節の変わり目の行持で、特に「食料」が関係している場合などは、監寺が率先して、自分で仕事をするようにと、道元禅師も『知事清規』「監院」項で、指摘していますが、その理由は次の一節を思うべきなのでしょう。
監院は十方雲水の面を見る毎に、まず内心まさに喜躍観悦すべし。
『知事清規』
監院は、十方から集まる雲水の顔を見る毎に、大いなる喜びの心を起こすべきだというのです。しかし、ここでいう「雲水」とは、正信を持ち、道心溢れる修行僧のことです。同箇所では、この「正信」「道心」について、大きく採り上げています。ですので、監院は修行僧の身心の安寧、道心の堅固を願って自ら節句を始めとする1年の節目で修行僧のために、豆を撒き、くす玉を吊すなどして、力を尽くすのです。
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