前回の【(序言)】に続いて、江戸時代の宗乗家・万仭道坦禅師の『坐禅撰』を参究していきます。前回は実質、導入部分だけに終わってしまったので、内容については今回以降に回していました。早速見ていきたいと思います。「序言」では、江戸時代当時でも、坐禅の見解について、誤った者が少なからずいたことが指摘されていました。今回は、それを導入に使い、あと様々な経論・祖録から、坐禅の実相を指摘しています。
一切の法には、邪と正、仮と実とあるけれども、坐禅の一法に甚だ邪と正とが多いことは、敢えて数えることまでもないほどである。だからこそ、古来の教えを引いて、2・3、弟子達に示そう。
世尊がかつて、尼倶律樹下にいて坐禅をしていたところ、商人が問うた「世尊は、車が過ぎるのを見ていましたか、見ていませんでしたか」と。
世尊がいうには「見ていなかった」と。
さらに(商人が)いうには「禅定しておられたのですが、おられなかったのですか」と。
世尊がいうには「禅定していなかった」と。
達磨大師が九年の面壁をしたことについて、或る人がいうには「精進が翻って怠惰になってしまったのではないか。愚かにもひたむきな坐禅を守ることがあってはならない」と。
六祖大師に、薜尚書が問うには「都にいる禅僧が皆いうには『道を会得しようとするならば、必ず坐禅を習って禅定すべきである。もし禅定に因らないのならば、解脱を得る者は未だ1人もいない』と。お尋ねするのですが、大師の説法はどのようなものですか」と。
六祖がいわれるには「道は心を悟ることによる。どうして坐禅にあろうか。経でもいわれている『もしくは如来が坐っているのを、もしくは如来が寝ているのを見れば、この人は如来の説かれている義を理解することはない』と。だからこそ、如来は来ることもなく、行くこともないのである。無生無滅であり、これを如来清浄の禅という。諸法は空寂で、これを如来清浄の坐という。究極には、証すべき何ものもない。どうして坐禅する必要があろうか」と。
拙僧ヘタレ訳
本不定期連載の「序言」でも申し上げたことですが、この万仭禅師の指摘から特に『普勧坐禅儀』の冒頭にある「原れば夫、道本円通す、争んぞ修証を仮らん。宗乗自在なり、何ぞ功夫を費やさん。」という修証否定の論理について理解が可能かと思われます。そもそも、仏法に「参飽」している状態になれば、修行など不要ではないか、というのは日本に於ける「天台本覚思想」を待たずに、中国の密教や禅宗でも語られたことなのであります。つまり、本当に本覚なのであれば、何をすることなくても、自ずと仏法に浸ることが出来るはずではないかという信仰が、そのような修行無用論を生み出すわけです。
ただし、またこれは、後の連載で申し上げていくことになると思いますけれども、ただの誤解であり、坐禅に於ける「事」と「理」とが正しく知られていれば、誤解は最小限で済むどころか、他の過ちまでも知ることが出来るようになるのです。「事」と「理」というのは、なるほど、我々は既に、仏陀釈尊の「大地有情同時成道」という悟道によりて、既に釈尊の悟りの内に生きる者であります。しかしながら、それはあくまでも「釈尊の悟りの中」で生きる存在でしか無く、或る意味、悟りの中に生きる迷える者なのです。よって、自らその釈尊によって与えられた悟りと、しかしながら、現実には迷える状況という矛盾を、どうにかして止揚し、解消していく必要があります。
坐禅とは、その止揚・統合に大きな力を発揮するのです。能く能く考えてみて下さい。我々の坐禅とは、既に仏陀釈尊が正覚を明らかにされた姿そのものであると同時に、歴代の祖師方が、同じように正覚を明らかにされた姿そのものです。先ほど、我々自身が仏陀釈尊の悟りの中で生きていると申し上げましたけれども、転じて考えてみれば、目の前にいる師匠が、その師匠によって、印可証明されているならば、その師匠(正師)とともに坐禅することは、やはり仏陀釈尊の悟りの中に生きることとなります。
その理由は明白です。道元禅師は次のように仰っています。
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに、諸仏如来をしては、本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。
『弁道話』
余りに有名な一節ですけれども、我々がその身心を用いて、手を組み足を組み、仏陀の自受用三昧に端坐するときには、全ての世界が仏の証明となるわけです。仏陀は、その児孫の自受用三昧の中で、元々悟れるありようを、更に豪華にし、そうではないあらゆる者達も、大解脱地を明らかにし、本来の面目を現すのです。このことは、つまり、坐禅をすることにより、その法会の主たる「堂頭」は、既に印可証明されている事実から、転じて、会下の衆を印可証明しているのです。これを「密受心印」とはいいます。
江西馬祖、むかし南岳に参学せしに、南岳かつて心印を馬祖に密受せしむ、磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住して、よのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。
『正法眼蔵』「古鏡」巻
普通、印可証明というのは、修行が終わり、大悟徹底の人に対して師が差し上げるものです。しかしここでは、修行の最初の最初に、それがあったといいます。この「心印」というのが、まさに師とともに行う坐禅の上での自受用三昧世界の中に生きる「調度」となったことをいいます。ただし、この「調度」というだけでは、まだ主体的に坐禅をしているわけではなく、「理」として、自受用三昧の中に生きるだけです。だからこそ、我々自身は、その密受された心印に「催されて」、自ら坐禅を行い、仏祖の悟りに「証入」することが求められているのです。
おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ、一切衆生を証入せしめんがためなり、人天、たれかいらざらむものや。
『弁道話』
仏祖は、その慈悲によって、誰でもその悟りに入れるよう、大きな慈悲の門を開いておいてくれました。人間界に生きる者、天上界に生きる者、どうして入らないことがありましょう。そして、この入るということ、それが「事理一体」ということなのです。ここまで申し上げてきたように、我々は、師とともに坐禅を行うことで、既に、仏祖の悟りを明らかにしています。しかしながら、それは「理」に止まります。「理」を超えて、或いは「理」に催されて、我々は「事」の坐禅に進みます。そして、「事理一体」として、自受用三昧に証入する仏祖の坐禅を明らかに出来るのです。無論、この「事理一体」は、大乗仏教の慈悲によって得ることが出来たわけです。そこで、自らも後継者を始めとする多くの衆生を、「事理一体の坐禅」に導くため、坐禅せざるを得なくなるわけです。これを「悟後の修行」とはいいます。この修行に入れない悟りを得てしまった人は、何てことはない「二乗の坐禅」を好んでいたに過ぎないのです。
二乗・声聞にも亦た坐禅有り。然ると雖も二乗、自調の心有り、涅槃の趣を求める有り。所以に諸仏・菩薩の坐禅に同じからず。
『永平広録』巻7-516上堂
道元禅師は、このように二乗・声聞の坐禅と、諸仏・菩薩の坐禅とを明確に分けています。この教え、我々児孫は無視するわけにはいきません。よって、自らの悟りを求めるだけではなく、他の悟りをも、その坐禅の中に得させる修行・証悟でなくてはならないのです。
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一切の法には、邪と正、仮と実とあるけれども、坐禅の一法に甚だ邪と正とが多いことは、敢えて数えることまでもないほどである。だからこそ、古来の教えを引いて、2・3、弟子達に示そう。
世尊がかつて、尼倶律樹下にいて坐禅をしていたところ、商人が問うた「世尊は、車が過ぎるのを見ていましたか、見ていませんでしたか」と。
世尊がいうには「見ていなかった」と。
さらに(商人が)いうには「禅定しておられたのですが、おられなかったのですか」と。
世尊がいうには「禅定していなかった」と。
達磨大師が九年の面壁をしたことについて、或る人がいうには「精進が翻って怠惰になってしまったのではないか。愚かにもひたむきな坐禅を守ることがあってはならない」と。
六祖大師に、薜尚書が問うには「都にいる禅僧が皆いうには『道を会得しようとするならば、必ず坐禅を習って禅定すべきである。もし禅定に因らないのならば、解脱を得る者は未だ1人もいない』と。お尋ねするのですが、大師の説法はどのようなものですか」と。
六祖がいわれるには「道は心を悟ることによる。どうして坐禅にあろうか。経でもいわれている『もしくは如来が坐っているのを、もしくは如来が寝ているのを見れば、この人は如来の説かれている義を理解することはない』と。だからこそ、如来は来ることもなく、行くこともないのである。無生無滅であり、これを如来清浄の禅という。諸法は空寂で、これを如来清浄の坐という。究極には、証すべき何ものもない。どうして坐禅する必要があろうか」と。
拙僧ヘタレ訳
本不定期連載の「序言」でも申し上げたことですが、この万仭禅師の指摘から特に『普勧坐禅儀』の冒頭にある「原れば夫、道本円通す、争んぞ修証を仮らん。宗乗自在なり、何ぞ功夫を費やさん。」という修証否定の論理について理解が可能かと思われます。そもそも、仏法に「参飽」している状態になれば、修行など不要ではないか、というのは日本に於ける「天台本覚思想」を待たずに、中国の密教や禅宗でも語られたことなのであります。つまり、本当に本覚なのであれば、何をすることなくても、自ずと仏法に浸ることが出来るはずではないかという信仰が、そのような修行無用論を生み出すわけです。
ただし、またこれは、後の連載で申し上げていくことになると思いますけれども、ただの誤解であり、坐禅に於ける「事」と「理」とが正しく知られていれば、誤解は最小限で済むどころか、他の過ちまでも知ることが出来るようになるのです。「事」と「理」というのは、なるほど、我々は既に、仏陀釈尊の「大地有情同時成道」という悟道によりて、既に釈尊の悟りの内に生きる者であります。しかしながら、それはあくまでも「釈尊の悟りの中」で生きる存在でしか無く、或る意味、悟りの中に生きる迷える者なのです。よって、自らその釈尊によって与えられた悟りと、しかしながら、現実には迷える状況という矛盾を、どうにかして止揚し、解消していく必要があります。
坐禅とは、その止揚・統合に大きな力を発揮するのです。能く能く考えてみて下さい。我々の坐禅とは、既に仏陀釈尊が正覚を明らかにされた姿そのものであると同時に、歴代の祖師方が、同じように正覚を明らかにされた姿そのものです。先ほど、我々自身が仏陀釈尊の悟りの中で生きていると申し上げましたけれども、転じて考えてみれば、目の前にいる師匠が、その師匠によって、印可証明されているならば、その師匠(正師)とともに坐禅することは、やはり仏陀釈尊の悟りの中に生きることとなります。
その理由は明白です。道元禅師は次のように仰っています。
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに、諸仏如来をしては、本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。
『弁道話』
余りに有名な一節ですけれども、我々がその身心を用いて、手を組み足を組み、仏陀の自受用三昧に端坐するときには、全ての世界が仏の証明となるわけです。仏陀は、その児孫の自受用三昧の中で、元々悟れるありようを、更に豪華にし、そうではないあらゆる者達も、大解脱地を明らかにし、本来の面目を現すのです。このことは、つまり、坐禅をすることにより、その法会の主たる「堂頭」は、既に印可証明されている事実から、転じて、会下の衆を印可証明しているのです。これを「密受心印」とはいいます。
江西馬祖、むかし南岳に参学せしに、南岳かつて心印を馬祖に密受せしむ、磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住して、よのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。
『正法眼蔵』「古鏡」巻
普通、印可証明というのは、修行が終わり、大悟徹底の人に対して師が差し上げるものです。しかしここでは、修行の最初の最初に、それがあったといいます。この「心印」というのが、まさに師とともに行う坐禅の上での自受用三昧世界の中に生きる「調度」となったことをいいます。ただし、この「調度」というだけでは、まだ主体的に坐禅をしているわけではなく、「理」として、自受用三昧の中に生きるだけです。だからこそ、我々自身は、その密受された心印に「催されて」、自ら坐禅を行い、仏祖の悟りに「証入」することが求められているのです。
おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ、一切衆生を証入せしめんがためなり、人天、たれかいらざらむものや。
『弁道話』
仏祖は、その慈悲によって、誰でもその悟りに入れるよう、大きな慈悲の門を開いておいてくれました。人間界に生きる者、天上界に生きる者、どうして入らないことがありましょう。そして、この入るということ、それが「事理一体」ということなのです。ここまで申し上げてきたように、我々は、師とともに坐禅を行うことで、既に、仏祖の悟りを明らかにしています。しかしながら、それは「理」に止まります。「理」を超えて、或いは「理」に催されて、我々は「事」の坐禅に進みます。そして、「事理一体」として、自受用三昧に証入する仏祖の坐禅を明らかに出来るのです。無論、この「事理一体」は、大乗仏教の慈悲によって得ることが出来たわけです。そこで、自らも後継者を始めとする多くの衆生を、「事理一体の坐禅」に導くため、坐禅せざるを得なくなるわけです。これを「悟後の修行」とはいいます。この修行に入れない悟りを得てしまった人は、何てことはない「二乗の坐禅」を好んでいたに過ぎないのです。
二乗・声聞にも亦た坐禅有り。然ると雖も二乗、自調の心有り、涅槃の趣を求める有り。所以に諸仏・菩薩の坐禅に同じからず。
『永平広録』巻7-516上堂
道元禅師は、このように二乗・声聞の坐禅と、諸仏・菩薩の坐禅とを明確に分けています。この教え、我々児孫は無視するわけにはいきません。よって、自らの悟りを求めるだけではなく、他の悟りをも、その坐禅の中に得させる修行・証悟でなくてはならないのです。
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