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キュレーションと仏教

佐々木俊尚氏『キュレーションの時代』(ちくま新書)ですが、発売してすぐに購入し、しばらく読んで、何故か途中で別の方向に行ってしまい読まずに数ヶ月、でもまた自分の本棚で見つけて、数日で読み切ったのであります。拙僧がこの本を読む気になった理由は、もちろん佐々木氏の著作を多く所持していて、その新たな一冊だったということがありましたが、それ以上に、これまで拙僧がやってきたことを、上手く言葉に出来そうだと感じたからです。

「キュレーション」という言葉を聞き慣れない人もいるかもしれませんから、同著から定義的文脈を引いてみると、だいたいはこんな感じになるようです。

元々、「キュレーター」という用語は、日本では博物館や美術館の学芸員の意味で用いられ、世界中にある様々な芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせること、だそうです。そして、これが情報のノイズであるネットの中から、何らかの「視座」に基づいて情報を拾い集め、それらにコンテキストを付してネット上に流す行為に似ているということなのです。この「視座の提供」をキュレーションといい、その視座や、コンテキストに「共感」した人と繋がっていくという現象(前掲同著210〜211頁から、拙僧の取意)。

詳しいことは、同著をご覧いただくとして、拙僧的にこのような定義に共感し得たのは、実際のところ、キュレーションと同じようなことは、我々仏教にも能く見られる現象であります。このように書くと、また勉強不足の坊主が、見知った最新用語で自分のことを牽強付会しているのか?と思われる人もいるかも知れませんが、よくよく考えてみて下さい。かつて中国で度々刊行された『高僧伝』、あれなどは、様々な場所で様々な活動をする僧侶を、編者の「視座」によって集め、紹介した文献です。

或いは、我々は今や、江戸時代の浄土真宗に数多く確認された「妙好人」という在家仏教者の存在を、自明のように知っておりますが、これを世に紹介したのは他ならぬ、鈴木大拙居士でありました。大拙居士は、その生き方自体が、西洋に日本の文化、禅を紹介するという「キュレーター」的存在であったといえましょう。実際に彼は、あの博多の画僧、仙?のコレクションを海外に紹介し、現在の出光美術館にあるコレクションの原型を集めています。要するに、それまで余り注目されていなかった仏教史上に於ける様々な信仰、人を、特定の視座に下に集め紹介する、それはキュレーターなのではないか?ということです。

そう考えてみると、拙ブログではかつて、「私的往生極楽記」「私的法華験記」「禅宗以前の禅僧達」という3つの連載を行ったことがありましたが、これらは総じて、「鎌倉新仏教以前の諸信仰を確認する」という目的の下に編まれた連載でした。いわゆる浄土宗・浄土真宗以前の阿弥陀信仰、日蓮宗以前の法華信仰、そして臨済宗・曹洞宗以前の坐禅人・禅定家を集め紹介したわけです。

これにより、鎌倉時代の諸宗派が、突然発生的に出て来たのではなく、それ以前にも類似した文脈が多数存在していて、その上で結実した連続的運動であることを示し得たといえましょう。そして、このことで現在の日本仏教に於ける、歴史の豊かさを説明し得たのです。日本の仏教は、近代以降の歪んだ宗教観によって、ズタズタにされようとしています。我々日本人には、日本人に相応しい仏教のあり方があるはずで、それは、例えば、仏陀の戒律を守らねばならない、というような次元での話には留まってはならないものです。現在の仏教の「悪い点」をあげつらって、そのことによって批判者が優位に立とうとするという下らない諍論は、実際のところ、日本近世の「国学」から来ているものです。国学には国学の一定の価値があると思いますが、こと、仏教批判については全くその価値がありません。いわゆる「ためにする議論」でしかないのです。

例えば、先に挙げた諸連載には、立派な僧侶はもちろんのこと、妻帯する僧侶、肉食する僧侶など、様々な僧侶が出て来ます。そして、それらを含み、外的な善し悪しに惑わされることなく、真っ当な信仰に生き抜いた人達だと評価しているから、かつての人々も記録に残したのです。「あいつは肉食した、とんでもない坊主だ」「あいつは妻帯した、悪僧だ」で終わってしまうなら、記録には残らなかったはずです。残しても、悪し様に書くだけだったでしょう。しかし、歴史は、そのような安易な善悪の適用を否定しています。

これまで埋もれ、誰も知らなかったような文脈や説話などを採り上げて提示し、出来るならば共感を招く、このような営みを行うのに、日本仏教が持ち得た豊潤な歴史はとても適しています。どうしても、「特定の信念」の下、「●●でなければならぬ」というイメージを、宗教に持つ人が多いと思います。しかし、この考えは、健全とはいえません。これは容易に、「●●であれば、○○にならねばならぬ」と転化され、「御利益がなければ、宗教ではない」とまで言い出すことでしょう。これを、最近の拙僧は「すがりつく宗教」として批判しています。そうではなく、鷹揚に構え、「●●でなければならぬ」ではなくて、「●●とも出来る」とし、ただその教えなり、行なりに任せて余計な期待をしない、これを「お任せの宗教」として推奨しています。「すがりつき」から「お任せ」への転化に、キュレーター的発想は有効に機能します。

先に示したキュレーションの定義の前に、「情報の真贋なんてだれにもみきわめられない」(前掲同著204頁)という重要な指摘があります。真贋を見極めるには、それに必要な多くの能力や見識を要します。そして、これは誰にも出来ることではありません。専門家、といわれる人達でも、その人が所属するパラダイムの影響から逃れられず、特に、主観的信念が問われる宗教の分野では、結局、専門家の見解であっても「ひも付き」の場合がほとんどです。これは、国公立大学系の学者でも変わらないのが残念なところです。彼らとて、脱宗派化という「偏向」に基づく近代仏教学の影響を逃れている人はほとんどいないでしょう。そして、脱宗派化されたと主張する学者の見解は、所詮「脱宗派化」という「ひも付き」なのです。

前掲同著では、「真贋」ではなくて「人の信頼度」の方に力点を移動させることで、その信頼出来る人の「視座」への共感を得るように話を進めているようですが、この辺はネット上であれば、繰り返しの活動を通して得ることが可能だといえましょう。まぁ、実際のところは、ここでいえる程、簡単ではないとも思いますが、しかし、拙僧自身は、単純かつ安易な善悪に基づく「真/偽」ではなく、宗教の本質は「信/疑」のバイナリーコードであると思っていますので、その「信」に基づいたブログを運営するだけなのです。

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