さて、今日は天神忌であります。拙僧、個人的に天神信仰を持っておりますので、それに因んだ記事を毎年アップしております。今年は、或る学僧の法語から、天神・菅原道真公に対する尊崇の念を新たにしてみたいと思います。
菅神の仏鑑に参じる図賛 并びに引
大唐国裏に禅師を訪う。珍重菅原の老古錐。
針芥相投ずる端的の処。梅花の香、仏の伽黎を襲う。
『器之為璠禅師語録外集』
徐々に解説していきますが、菅神というのは、天神である菅原道真公(845〜903)のことで、道真公が「仏鑑禅師」、つまり、中国の禅僧・無準師範(1178〜1249)に参じたという伝説の図に付した賛を引いて、日本の中世曹洞宗・通幻派の器之禅師(1404〜1468)が偈を詠まれています。この道真公が、中国で禅僧に参じたという話は、中世の禅宗(特に臨済宗)で多く用いられました。
どうも、この伝説の始まりは、五山僧が「詩禅一致」を目指して作ったもののようです。詳細は【御命日の記事・2007年】にてどうぞ。それで、自ら五山で修行しつつ、或いは優れた文化を横目で見つつ、林下である曹洞宗でも、この一件を題材にしていたという話のようです。
それで、器之禅師の詠まれた偈ですけれども、この前に長い「序引」がありまして、それは【御命日の記事・2009年】で紹介しているので、ご覧いただくとして、それを受けての今日の記事でございます。つまるところ、道真公は、中国で仏鑑禅師を訪ねたというわけです。
珍重というのは、ねぎらいの言葉になりますので、器之禅師は、使われて先が丸くなるキリに喩えられるほど、能く学んでおられる道真公を労ったということになります。針芥相投という言葉は、「箭鋒相拄」と同じ意味で用いられますので、つまり、仏鑑禅師と道真公との機がピッタリ一致したという意味になります。仏祖の道理の端的に於いて、師資が一体となったわけです。だからこそ、道真公の纏った梅華の香りが、更に仏の伝えた僧伽梨衣(袈裟)に重なったと、器之禅師は詠まれています。
道真公は、天神として仏教に取り入れられるようになると、その本地は観世音菩薩であるとされました。何故ならば、『観音経』の中に、「宰官の身を以て得度すべき者には、即ち宰官の身を現じて為に法を説き」とあって、道真公とはこの「宰官の身」として朝廷の政治に関わったと解釈されたわけです。その上、詩才もありましたので、その両方の点から、後々まで仏教では、まさに仏教の守護神として、そのお力をいただけるように願ったといえましょう。
一般的な「渡唐天神図」を見ると、普通の俗服に頭冠を被った様子で描かれており、この頭冠が御袈裟というわけでは無いのでしょうから、まさに俗人のままに禅に参じたということになるのでしょうか。この辺は、もう少し拙僧自身の参究が必要なところです。
ということで、今日は御命日でありますので、拙僧も時間があれば天満宮にお参りしたいところです。ちょうど、湯島天神辺りは「梅まつり」でしょうか。南無大自在天神、合掌。
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大唐国裏に禅師を訪う。珍重菅原の老古錐。
針芥相投ずる端的の処。梅花の香、仏の伽黎を襲う。
『器之為璠禅師語録外集』
徐々に解説していきますが、菅神というのは、天神である菅原道真公(845〜903)のことで、道真公が「仏鑑禅師」、つまり、中国の禅僧・無準師範(1178〜1249)に参じたという伝説の図に付した賛を引いて、日本の中世曹洞宗・通幻派の器之禅師(1404〜1468)が偈を詠まれています。この道真公が、中国で禅僧に参じたという話は、中世の禅宗(特に臨済宗)で多く用いられました。
どうも、この伝説の始まりは、五山僧が「詩禅一致」を目指して作ったもののようです。詳細は【御命日の記事・2007年】にてどうぞ。それで、自ら五山で修行しつつ、或いは優れた文化を横目で見つつ、林下である曹洞宗でも、この一件を題材にしていたという話のようです。
それで、器之禅師の詠まれた偈ですけれども、この前に長い「序引」がありまして、それは【御命日の記事・2009年】で紹介しているので、ご覧いただくとして、それを受けての今日の記事でございます。つまるところ、道真公は、中国で仏鑑禅師を訪ねたというわけです。
珍重というのは、ねぎらいの言葉になりますので、器之禅師は、使われて先が丸くなるキリに喩えられるほど、能く学んでおられる道真公を労ったということになります。針芥相投という言葉は、「箭鋒相拄」と同じ意味で用いられますので、つまり、仏鑑禅師と道真公との機がピッタリ一致したという意味になります。仏祖の道理の端的に於いて、師資が一体となったわけです。だからこそ、道真公の纏った梅華の香りが、更に仏の伝えた僧伽梨衣(袈裟)に重なったと、器之禅師は詠まれています。
道真公は、天神として仏教に取り入れられるようになると、その本地は観世音菩薩であるとされました。何故ならば、『観音経』の中に、「宰官の身を以て得度すべき者には、即ち宰官の身を現じて為に法を説き」とあって、道真公とはこの「宰官の身」として朝廷の政治に関わったと解釈されたわけです。その上、詩才もありましたので、その両方の点から、後々まで仏教では、まさに仏教の守護神として、そのお力をいただけるように願ったといえましょう。
一般的な「渡唐天神図」を見ると、普通の俗服に頭冠を被った様子で描かれており、この頭冠が御袈裟というわけでは無いのでしょうから、まさに俗人のままに禅に参じたということになるのでしょうか。この辺は、もう少し拙僧自身の参究が必要なところです。
ということで、今日は御命日でありますので、拙僧も時間があれば天満宮にお参りしたいところです。ちょうど、湯島天神辺りは「梅まつり」でしょうか。南無大自在天神、合掌。
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