なんか、中国の人の語録を読んでいたら、こんな上堂語があった。
上堂に云く、法昌五日に陞堂す。玄を談じ妙を説くとせず。
虚空自から龍神有り、誰か問わん、僧の多きを、僧の少なしを。
『洪州分寧法昌禅院遇禅師語録』所収
この上堂語を発したのは、法昌倚遇禅師という人である。雲門宗の人である。系統的には、雲門文偃−洞山守初(麻三斤で有名な人)−福厳良雅ー開福徳賢−法昌倚遇という流れのようである(間違ってたらm(__)m)。それで、こんな上堂があった。要するに、5日に一度陞堂(上堂)しているという話で始まっている。
時代的には、この人は道元禅師よりも前であり・・・ギリギリ北宋時代だろうか?とりあえず、禅林はそれなりの規模と格式で運営されていた時代の人であろうから、5日に一度の上堂、五参上堂を実施していた。
しかし、上堂といえば、「玄妙を説く」のが通常だけれども、この人はそうではないといっている。何故そうではないのか?そこには、虚空には龍神がいるのであるから、もう十分だという話になっている印象である。よって、安居僧の多少を問うのは意味が無い、という話になりそうである。
・・・本当にそうだろうか?
でも、時代的には必死になって修行する時代だったとも言い切れず、なんか、投げやりな運営をされていたとしても、それ程違和感は覚えない。
それにしても、虚空には龍神がいるという話なのだが、これもどういう理解が良いのか、良く分からない(笑)でも、確かに諸経論には、仏陀の説法には一切の衆生に交じって、虚空の龍神衆がともに聞いている、というような下りを見ることが、結構容易に出来るので、そういう類なのかもしれない。要するに、目の前にいる僧侶の数は少ないけれども、自分の説法は龍神が聞いている、というような、何らかの自負という感じである。
まぁ、良く分からないので、とりあえずこんな感じ。それにしても、語録というのは、本当に難しい。
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上堂に云く、法昌五日に陞堂す。玄を談じ妙を説くとせず。
虚空自から龍神有り、誰か問わん、僧の多きを、僧の少なしを。
『洪州分寧法昌禅院遇禅師語録』所収
この上堂語を発したのは、法昌倚遇禅師という人である。雲門宗の人である。系統的には、雲門文偃−洞山守初(麻三斤で有名な人)−福厳良雅ー開福徳賢−法昌倚遇という流れのようである(間違ってたらm(__)m)。それで、こんな上堂があった。要するに、5日に一度陞堂(上堂)しているという話で始まっている。
時代的には、この人は道元禅師よりも前であり・・・ギリギリ北宋時代だろうか?とりあえず、禅林はそれなりの規模と格式で運営されていた時代の人であろうから、5日に一度の上堂、五参上堂を実施していた。
しかし、上堂といえば、「玄妙を説く」のが通常だけれども、この人はそうではないといっている。何故そうではないのか?そこには、虚空には龍神がいるのであるから、もう十分だという話になっている印象である。よって、安居僧の多少を問うのは意味が無い、という話になりそうである。
・・・本当にそうだろうか?
でも、時代的には必死になって修行する時代だったとも言い切れず、なんか、投げやりな運営をされていたとしても、それ程違和感は覚えない。
それにしても、虚空には龍神がいるという話なのだが、これもどういう理解が良いのか、良く分からない(笑)でも、確かに諸経論には、仏陀の説法には一切の衆生に交じって、虚空の龍神衆がともに聞いている、というような下りを見ることが、結構容易に出来るので、そういう類なのかもしれない。要するに、目の前にいる僧侶の数は少ないけれども、自分の説法は龍神が聞いている、というような、何らかの自負という感じである。
まぁ、良く分からないので、とりあえずこんな感じ。それにしても、語録というのは、本当に難しい。
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