賓頭盧尊者といえば、仏陀からこのような「遺言」を受けたとされています。
夫れ仏、倶尸那城娑羅林間にて円寂に帰する時、賓頭盧尊者等の十六羅漢を召して、摩頂して言く、「我が無上の正法を以て、汝等に付属す。我が滅後、弥勒の涅槃に入らざる已前に、当に我が法を興して、衆生を利益すべし、云々」と。
『羅漢供養式文』
このように、賓頭盧尊者は、十六羅漢にも数えられる修行達者な人であり、ここでは、無上の正法を付属され、弥勒が涅槃に入るまで正法を護持する存在として命を受けています。そんな凄い人のはずではありますが、或る時仏陀に叱られたという記録があります。それを見てみようと思います。
また、賓頭盧尊者、施主のために神通を現ず。仏、賓頭盧を呵責して言はく、
何すれぞ汝、一食の施主のために神通を現ずる。譬えば婬女の、半銭の利のために、人に己が陰処を示すがごとし。我れ汝を罰す、滅度を取ること勿れ。世間に住して応に末世の福田と為るべし〈取意〉
栄西禅師『興禅護国論』「第三門・世人決疑門」
・・・仏陀の賓頭盧への呵責、かなり際どいところを仰っていますね。なお、ここでは「取意」と分かりやすかったので、栄西禅師の『興禅護国論』から引きましたが、更に出典を考えると、『十誦律』巻37、『四分律』巻51などがあるそうで、複数の律にまたがって採り上げられていることが分かります。そして、それを受けて、『法苑珠林』巻42や『経律異相』巻13などにも見えるとのこと。
それで調べてみましたが、あれ?ここまで言ってるか?どうもいっていないような気がするのですが。いや、確かに賓頭盧尊者は呵責されていますけれども、この怒られ方の問題です。かなり厳しい言い方になっているような気がします。いわゆる婬女云々という表現については、『四分律』にはそう見えていますが、でも、「己が陰処を示す」とかいうストリッパー的表現については、何が出典なのか不明。
まぁ、ちゃんと調べれば出ているのでしょうが、拙僧が適当に調べた感じでは能く分かりませんでした。とりあえず、栄西禅師の本文では「取意」とか書いてあるので、複数の文献なり、同じ文献でも多くの文脈から適宜短くしたというべきなのかもしれませんが、分かりませんね。
それにしても、仏陀が賓頭盧尊者に対して怒ったことの内容は、施主に対する諂いをすべきでは無い、という話です。どうも、食事を施した施主のために、尊者は神通力を起こしたようなのですが、結局は、その場で何か分かりやすい「お礼」を仏教者が行ったという話になるでしょう。しかし、仏陀はそれを否定しました。そして、阿羅漢としてその神通力を用いてこの世界に住し、「末世の福田」になるよう説いています。
「末世の福田」というのは、末法の世にあっても、多くの人々が行う善行に対し、優れた功徳を施せる存在であれ、という意味になりますが、この「功徳」とは現世利益的では無く、どこまでも仏法を得ることが出来るように、という内容です。無論、現世だけに限られることではありません。出家者はそうでしょうが、在家者は天に生まれ変わったりすることを意味しています。そのためにも、多くの功徳を積むべきだとされるわけです。
ですけれども、応供たる尊者は、「福田」として、多くの功徳を施せるのです。よって、「神通を現ずる」様な諂いは要らないという話になるでしょう。この仏陀のお叱りは、今の我々も決して他人事とすべきでは無いように思います。場合によっては、布施を得んがために、諂う場合があるためです。しかし、そもそも布施はその施主が功徳を積むために行われるものであって、功徳が積まれれば、後、仏教者自身が余計な諂いなどすべきでは無いといえるのです。
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夫れ仏、倶尸那城娑羅林間にて円寂に帰する時、賓頭盧尊者等の十六羅漢を召して、摩頂して言く、「我が無上の正法を以て、汝等に付属す。我が滅後、弥勒の涅槃に入らざる已前に、当に我が法を興して、衆生を利益すべし、云々」と。
『羅漢供養式文』
このように、賓頭盧尊者は、十六羅漢にも数えられる修行達者な人であり、ここでは、無上の正法を付属され、弥勒が涅槃に入るまで正法を護持する存在として命を受けています。そんな凄い人のはずではありますが、或る時仏陀に叱られたという記録があります。それを見てみようと思います。
また、賓頭盧尊者、施主のために神通を現ず。仏、賓頭盧を呵責して言はく、
何すれぞ汝、一食の施主のために神通を現ずる。譬えば婬女の、半銭の利のために、人に己が陰処を示すがごとし。我れ汝を罰す、滅度を取ること勿れ。世間に住して応に末世の福田と為るべし〈取意〉
栄西禅師『興禅護国論』「第三門・世人決疑門」
・・・仏陀の賓頭盧への呵責、かなり際どいところを仰っていますね。なお、ここでは「取意」と分かりやすかったので、栄西禅師の『興禅護国論』から引きましたが、更に出典を考えると、『十誦律』巻37、『四分律』巻51などがあるそうで、複数の律にまたがって採り上げられていることが分かります。そして、それを受けて、『法苑珠林』巻42や『経律異相』巻13などにも見えるとのこと。
それで調べてみましたが、あれ?ここまで言ってるか?どうもいっていないような気がするのですが。いや、確かに賓頭盧尊者は呵責されていますけれども、この怒られ方の問題です。かなり厳しい言い方になっているような気がします。いわゆる婬女云々という表現については、『四分律』にはそう見えていますが、でも、「己が陰処を示す」とかいうストリッパー的表現については、何が出典なのか不明。
まぁ、ちゃんと調べれば出ているのでしょうが、拙僧が適当に調べた感じでは能く分かりませんでした。とりあえず、栄西禅師の本文では「取意」とか書いてあるので、複数の文献なり、同じ文献でも多くの文脈から適宜短くしたというべきなのかもしれませんが、分かりませんね。
それにしても、仏陀が賓頭盧尊者に対して怒ったことの内容は、施主に対する諂いをすべきでは無い、という話です。どうも、食事を施した施主のために、尊者は神通力を起こしたようなのですが、結局は、その場で何か分かりやすい「お礼」を仏教者が行ったという話になるでしょう。しかし、仏陀はそれを否定しました。そして、阿羅漢としてその神通力を用いてこの世界に住し、「末世の福田」になるよう説いています。
「末世の福田」というのは、末法の世にあっても、多くの人々が行う善行に対し、優れた功徳を施せる存在であれ、という意味になりますが、この「功徳」とは現世利益的では無く、どこまでも仏法を得ることが出来るように、という内容です。無論、現世だけに限られることではありません。出家者はそうでしょうが、在家者は天に生まれ変わったりすることを意味しています。そのためにも、多くの功徳を積むべきだとされるわけです。
ですけれども、応供たる尊者は、「福田」として、多くの功徳を施せるのです。よって、「神通を現ずる」様な諂いは要らないという話になるでしょう。この仏陀のお叱りは、今の我々も決して他人事とすべきでは無いように思います。場合によっては、布施を得んがために、諂う場合があるためです。しかし、そもそも布施はその施主が功徳を積むために行われるものであって、功徳が積まれれば、後、仏教者自身が余計な諂いなどすべきでは無いといえるのです。
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