今日3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」であります。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは我々にとって貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものであります。
石門林間録に云く「菩提達磨、初め梁より魏に之き、嵩山の下に経行し、少林に倚仗して、面壁燕坐する而已、習禅に非ざるなり。久しく之れ人の其れ測り難き故なり。因って達磨を以て習禅と為し、夫れ禅那、諸行の一なるのみ。何ぞ聖人を尽くすに以て足らん。而るに当時の人、之を以て史と為す者、又た従って而も習禅を伝うの列とし、枯木死灰の徒として伍と為す。然りと雖も、聖人、禅那に止まるに非ず、而も亦た禅那に違わず。易の陰陽より出でて、而も亦た陰陽に違わざるが如し」と。
第二十八祖と称するは、迦葉大士を初祖として称するなり。毘婆尸仏よりは第三十五祖なり。七仏および二十八代、かならずしも禅那をもて証道をつくすべからず。このゆえに、古先いはく、禅那は諸行のひとつならくのみ、なんぞもて聖人をつくすにたらん。
この古先、いささか人をみきたれり、祖宗の堂奥にいれり、このゆえにこの道あり。近日は大宋国の天下に、難得なるべし、ありがたかるべし。たとひ禅那なりとも、禅宗と称すべからず、いはんや禅那いまだ仏法の総要にあらず。
『正法眼蔵』「仏道」巻
『林間録』というのは、中国の臨済宗黄竜派の系統であった覚範慧洪の随筆であり、その中で慧洪は、従来の「達磨」に対する評価が、明らかに間違っていると述べています。つまり、習禅(禅を習う人)として考えるのは誤りで、それは達磨の「面壁九年」が、「因地の修行」では無いことを理由にしているのであります。道元禅師は、そのような慧洪の判断を讃歎し、この人は、人を見ており、祖宗(最も根源となる教え)に入っているからこそ、このような言葉があるとされました。
道元禅師が修行をされた当時の大宋国には、こういう発言をする人は稀であり、その意味で、「ありがたかるべし」と仰いました。物事の道理とは、数の多少が問われているのでは無く、ただ道理に契うかどうかであることを、如実に示す教えであるといえましょう。しかし、道理に契う人は常に少数です。それは、ここでいわれているのは、仏道の道理であり、それは世間的な常識などを容易に受け容れてはくれないからです。
しかし、そのような貴重・希少であるからこそ、我々は「ありがたい」と思うのであります。感謝すると同時に、尊崇の念が起きるというのは、希少性を持つ対象を、確実に得たという確信がそう思わせるのであります。その意味では、尊崇の念というのは、どこまでも自己と対象との「関係」によって成就する感情であります。
ところで、ここに見える、禅定と「仏法の総要」との関係については、また別の機会に取り上げてみます。
さて、今日のような日だからこそ、改めて自然で謙虚な学びを行えるように、感謝の気持ちを起こすのは大切なことだと思うわけです。感謝の念の伝え方は様々です。やはり自然と伝わるのが一番ですが、敢えて言葉に出して感謝することも必要であります。ということで、毎日ブログをご覧になって下さる読者の皆さま、ありがとうございます。合掌
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石門林間録に云く「菩提達磨、初め梁より魏に之き、嵩山の下に経行し、少林に倚仗して、面壁燕坐する而已、習禅に非ざるなり。久しく之れ人の其れ測り難き故なり。因って達磨を以て習禅と為し、夫れ禅那、諸行の一なるのみ。何ぞ聖人を尽くすに以て足らん。而るに当時の人、之を以て史と為す者、又た従って而も習禅を伝うの列とし、枯木死灰の徒として伍と為す。然りと雖も、聖人、禅那に止まるに非ず、而も亦た禅那に違わず。易の陰陽より出でて、而も亦た陰陽に違わざるが如し」と。
第二十八祖と称するは、迦葉大士を初祖として称するなり。毘婆尸仏よりは第三十五祖なり。七仏および二十八代、かならずしも禅那をもて証道をつくすべからず。このゆえに、古先いはく、禅那は諸行のひとつならくのみ、なんぞもて聖人をつくすにたらん。
この古先、いささか人をみきたれり、祖宗の堂奥にいれり、このゆえにこの道あり。近日は大宋国の天下に、難得なるべし、ありがたかるべし。たとひ禅那なりとも、禅宗と称すべからず、いはんや禅那いまだ仏法の総要にあらず。
『正法眼蔵』「仏道」巻
『林間録』というのは、中国の臨済宗黄竜派の系統であった覚範慧洪の随筆であり、その中で慧洪は、従来の「達磨」に対する評価が、明らかに間違っていると述べています。つまり、習禅(禅を習う人)として考えるのは誤りで、それは達磨の「面壁九年」が、「因地の修行」では無いことを理由にしているのであります。道元禅師は、そのような慧洪の判断を讃歎し、この人は、人を見ており、祖宗(最も根源となる教え)に入っているからこそ、このような言葉があるとされました。
道元禅師が修行をされた当時の大宋国には、こういう発言をする人は稀であり、その意味で、「ありがたかるべし」と仰いました。物事の道理とは、数の多少が問われているのでは無く、ただ道理に契うかどうかであることを、如実に示す教えであるといえましょう。しかし、道理に契う人は常に少数です。それは、ここでいわれているのは、仏道の道理であり、それは世間的な常識などを容易に受け容れてはくれないからです。
しかし、そのような貴重・希少であるからこそ、我々は「ありがたい」と思うのであります。感謝すると同時に、尊崇の念が起きるというのは、希少性を持つ対象を、確実に得たという確信がそう思わせるのであります。その意味では、尊崇の念というのは、どこまでも自己と対象との「関係」によって成就する感情であります。
ところで、ここに見える、禅定と「仏法の総要」との関係については、また別の機会に取り上げてみます。
さて、今日のような日だからこそ、改めて自然で謙虚な学びを行えるように、感謝の気持ちを起こすのは大切なことだと思うわけです。感謝の念の伝え方は様々です。やはり自然と伝わるのが一番ですが、敢えて言葉に出して感謝することも必要であります。ということで、毎日ブログをご覧になって下さる読者の皆さま、ありがとうございます。合掌
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