確かに、曹洞宗は能く坐禅を勤める宗派である。よって、「禅宗」という括りがなされるのは致し方ない。だが、一応、その宗派内の祖師が、勝手な分類を嫌っている場合もあることは知っておいて良い。
しかあれば、仏道の功徳・要機、もらさずそなはれり。西天より東地につたはれて十万八千里なり、在世より今日につたはれて二千余載、この道理を参学せざるともがら、みだりにあやまりていはく、仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心、みだりにこれを禅宗と称す、祖師を禅祖と称す、学者を禅師と号す、あるひは禅和子と称し、あるひは禅家流の自称あり。これみな僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、従古至今、いまだ禅宗の称あらざるを、みだりに自称するは、仏道をやぶる魔なり、仏祖のまねかざる怨家なり。
『正法眼蔵』「仏道」巻
道元禅師は、仏道の功徳も、肝心なる働き(=要機)も、漏らすこと無くインドから中国にまで伝わってきたという。よって、この道理とは、仏祖が「正法眼蔵涅槃妙心」を正伝してきたとのみ会得すれば良いのであって、これを「禅宗」などと称するのはお門違いなのである。更に、坐禅ばかりしていることから、習禅の類と勘違いされ、「禅那」を重んじると思われることもあったようである。いや、今もか?
たとひ禅那なりとも、禅宗と称すべからず、いはんや禅那いまだ仏法の総要にあらず。
同上
道元禅師が用いられた、「仏法の総要」という考え方に注目したい。いわば、禅那とは、禅定のことであるが、これは「仏法の総要」つまり、総ての要とはいえないという。それは、禅那が仏智慧を発現させるための手段として考えられているためであり、その意味で限定的だからである。だから、仏法の総ての要となる資格が無いといえるのである。だが、こういう風にいうと、では坐禅は「仏法の総要」では無いのか?と思う人がいるかもしれない。それは早計である。道元禅師はこう述べている。
打坐則ち正法眼蔵涅槃妙心なり。
『永平広録』巻4-304上堂
道元禅師は、達磨大師が嵩山少林寺にて行った「面壁九年」の故事を評してこう述べておられる。要は、達磨の面壁とは、今更に正法眼蔵涅槃妙心を新たに獲得する坐禅では無く、まさにその坐禅がつまりは正法眼蔵涅槃妙心であったと述べている。その意味で、坐禅とは「仏法の総要」である。教行証一等の仏行である。だからこそ、この打坐を智慧と相対させて、限定的に考える必要はないし、それは坐禅に対する冒涜でもある。坐禅には欠ける功徳が何も無い。よって、坐禅とは正法なのであり、総要である。
坐禅を限定的に捉えることに対し、道元禅師は『弁道話』以降常に批判を繰り返してきた。それは、やはり世の理解が得られなかったことと、同時に弟子達にも坐禅を手段とのみ考える人が多かったためであろうと推測される。だが、道元禅師は常に、坐禅こそが正伝の仏法であると考えておられ、そのように努めておられた。我々は、その御遺志を受け、同様の発想を得なくてはならない。
そして、「禅宗」というと、どこか限定的であり、我々は「坐禅」を他の行と相対させているのでは無いのだから、自らで自らの可能性を縛る必要などないのだ。よって、胸を張って、「我々の坐禅は、正伝の仏法です」とのみいえば良い。ここに欠けたる功徳も道理も無いのだから。
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しかあれば、仏道の功徳・要機、もらさずそなはれり。西天より東地につたはれて十万八千里なり、在世より今日につたはれて二千余載、この道理を参学せざるともがら、みだりにあやまりていはく、仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心、みだりにこれを禅宗と称す、祖師を禅祖と称す、学者を禅師と号す、あるひは禅和子と称し、あるひは禅家流の自称あり。これみな僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、従古至今、いまだ禅宗の称あらざるを、みだりに自称するは、仏道をやぶる魔なり、仏祖のまねかざる怨家なり。
『正法眼蔵』「仏道」巻
道元禅師は、仏道の功徳も、肝心なる働き(=要機)も、漏らすこと無くインドから中国にまで伝わってきたという。よって、この道理とは、仏祖が「正法眼蔵涅槃妙心」を正伝してきたとのみ会得すれば良いのであって、これを「禅宗」などと称するのはお門違いなのである。更に、坐禅ばかりしていることから、習禅の類と勘違いされ、「禅那」を重んじると思われることもあったようである。いや、今もか?
たとひ禅那なりとも、禅宗と称すべからず、いはんや禅那いまだ仏法の総要にあらず。
同上
道元禅師が用いられた、「仏法の総要」という考え方に注目したい。いわば、禅那とは、禅定のことであるが、これは「仏法の総要」つまり、総ての要とはいえないという。それは、禅那が仏智慧を発現させるための手段として考えられているためであり、その意味で限定的だからである。だから、仏法の総ての要となる資格が無いといえるのである。だが、こういう風にいうと、では坐禅は「仏法の総要」では無いのか?と思う人がいるかもしれない。それは早計である。道元禅師はこう述べている。
打坐則ち正法眼蔵涅槃妙心なり。
『永平広録』巻4-304上堂
道元禅師は、達磨大師が嵩山少林寺にて行った「面壁九年」の故事を評してこう述べておられる。要は、達磨の面壁とは、今更に正法眼蔵涅槃妙心を新たに獲得する坐禅では無く、まさにその坐禅がつまりは正法眼蔵涅槃妙心であったと述べている。その意味で、坐禅とは「仏法の総要」である。教行証一等の仏行である。だからこそ、この打坐を智慧と相対させて、限定的に考える必要はないし、それは坐禅に対する冒涜でもある。坐禅には欠ける功徳が何も無い。よって、坐禅とは正法なのであり、総要である。
坐禅を限定的に捉えることに対し、道元禅師は『弁道話』以降常に批判を繰り返してきた。それは、やはり世の理解が得られなかったことと、同時に弟子達にも坐禅を手段とのみ考える人が多かったためであろうと推測される。だが、道元禅師は常に、坐禅こそが正伝の仏法であると考えておられ、そのように努めておられた。我々は、その御遺志を受け、同様の発想を得なくてはならない。
そして、「禅宗」というと、どこか限定的であり、我々は「坐禅」を他の行と相対させているのでは無いのだから、自らで自らの可能性を縛る必要などないのだ。よって、胸を張って、「我々の坐禅は、正伝の仏法です」とのみいえば良い。ここに欠けたる功徳も道理も無いのだから。
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