良く、「八面六臂の活躍」などという言葉の使われ方をするこの「八面六臂」。だが、拙僧は今まで、これに該当する仏像を見たことが無い。ネットで調べてもちょっと出て来そうに無い。
たいがい、普通はこんな感じだと思う。
忽若し忿怒れる那吒とならば、三頭六臂を現し・・・
『碧巌録』第87則・示衆
そう。「三つ頭の六つの腕」という状況、まさに、興福寺にある阿修羅像もこれである。なお、禅宗ではここで挙げた「三頭六臂」という表現が好まれる(参考までに、密教系を中心に他宗派にはそれ程見えない)。類似した表現は、道元禅師も用いている。
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身、これ時なり、時なるがゆえに時の荘厳光明あり、いまの十二時に習学すべし。三頭八臂、これ時なり、時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。
『正法眼蔵』「有時」巻
ところで、道元禅師は「八つの腕」にしてしまわれたが、この表現はそれまでの文献には意外と少ない。「六つの腕」の方が普通だ。一体、何を参考にされたものか。そういえば、初めて「有時」巻を読んだときにも、この「三頭八臂」には「不動明王の如き煩悩折伏の相」などと註記がされていて(春秋社『道元禅師全集』第1巻)、いや、別にその時には疑問に思わなかったのだが、でも、普通は「六臂」ではないか?と後で思ったのを、今ふと思い出した。で、調べてみると、やっぱりそうなのだ。
話はずれてしまったが、そういうことで、「八面六臂」というのは頭が多すぎる気がするのだ。こういう仏像はあるのだろうか?文献的には、良く分からない。で、色々と調べてみて、ようやく見付けたのが、以下の記述。
空智大金剛王。〈中略〉八面一十六臂。
『仏説大悲空智金剛大教王儀軌経』巻四
近い記述なんだけど、こちらは「十六臂」と、腕の数が多すぎ(汗)中国宋代の法護という人が訳出した密教系の文献だったけど、残念ながらこれも「八面六臂」にはならず。では、一体この「八面六臂」とは何なのだろうか?すると、こんな答えを見付けた。
「語源由来事典」の「八面六臂」項を見たら、「八面六臂の仏像は存在しない」と断定されていた。なぁんだ、やっぱりそうなのか。と、結局は一面二臂の拙僧らしい、迂闊な記事なのであった。
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忽若し忿怒れる那吒とならば、三頭六臂を現し・・・
『碧巌録』第87則・示衆
そう。「三つ頭の六つの腕」という状況、まさに、興福寺にある阿修羅像もこれである。なお、禅宗ではここで挙げた「三頭六臂」という表現が好まれる(参考までに、密教系を中心に他宗派にはそれ程見えない)。類似した表現は、道元禅師も用いている。
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身、これ時なり、時なるがゆえに時の荘厳光明あり、いまの十二時に習学すべし。三頭八臂、これ時なり、時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。
『正法眼蔵』「有時」巻
ところで、道元禅師は「八つの腕」にしてしまわれたが、この表現はそれまでの文献には意外と少ない。「六つの腕」の方が普通だ。一体、何を参考にされたものか。そういえば、初めて「有時」巻を読んだときにも、この「三頭八臂」には「不動明王の如き煩悩折伏の相」などと註記がされていて(春秋社『道元禅師全集』第1巻)、いや、別にその時には疑問に思わなかったのだが、でも、普通は「六臂」ではないか?と後で思ったのを、今ふと思い出した。で、調べてみると、やっぱりそうなのだ。
話はずれてしまったが、そういうことで、「八面六臂」というのは頭が多すぎる気がするのだ。こういう仏像はあるのだろうか?文献的には、良く分からない。で、色々と調べてみて、ようやく見付けたのが、以下の記述。
空智大金剛王。〈中略〉八面一十六臂。
『仏説大悲空智金剛大教王儀軌経』巻四
近い記述なんだけど、こちらは「十六臂」と、腕の数が多すぎ(汗)中国宋代の法護という人が訳出した密教系の文献だったけど、残念ながらこれも「八面六臂」にはならず。では、一体この「八面六臂」とは何なのだろうか?すると、こんな答えを見付けた。
「語源由来事典」の「八面六臂」項を見たら、「八面六臂の仏像は存在しない」と断定されていた。なぁんだ、やっぱりそうなのか。と、結局は一面二臂の拙僧らしい、迂闊な記事なのであった。
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