余りに有名な語だが、実際のところはどんな意味だろう。
上堂に、云く。
人人具足なり、箇箇円成なり。甚と為てか法堂上、草深きこと一丈なる。這箇の消息を会せんと要すや。
良久して云く、華は愛惜に依りて落ち、草は棄嫌を逐って生ず。
『永平広録』巻1-51上堂
題名を見て、『正法眼蔵』「現成公案」巻を思い付かれた方も多いと思うが、実は、それ以外でも、道元禅師の語録に引用例がある。引用例と述べたが、元々は中国禅にて用いられていた語である。
問う、如何なるか是、和尚の家風。
師云く、華は愛惜に従りて落ち、草は棄嫌に逐って生ず。
『天聖広燈録』巻25・興元府牛頭山精禅師
ここでは、見ての通り、「和尚の家風」について聞かれた僧が、この語をもって答えている。ここでの意味は、諸法実相ということである。よって、家風としては、華を求めず、草を嫌わないということである。華とは悟り、草とは煩悩である。そのことを前提に、道元禅師の上堂語を見てみよう。
まず道元禅師は「人人具足なり、箇箇円成なり」と、『碧巌録』第99則から引用しながら、いかなる人であっても、法が円成している事実を示しているのである。これはつまり、本来の悟りを示している。しかし、一方で法の説かれる堂閣である法堂上には、草が一丈も生えている。これは『祖庭事苑』巻2に出る言葉だが、つまりは法が満ちていても、煩悩もまた満ちている事実を指している。煩悩即菩提である。
よって、道元禅師はこの事実をもって、「華は愛惜に従りて落ち、草は棄嫌を逐って生ず」と言われた。これは、まさに、華など求めなくても、既に我々に具わっているのだから、愛惜してはならないとし、草の茫々たる様もまた法の事実なのだから、嫌う必要は無いとしているのである。華や草という現象を中心に考えてしまうと、これに至ることは出来ない。そうではなく、「法」というところから見ていく必要がある。
或る意味、「現成公案」巻で引用されているのも、華や草のありさまに、諸法実相を見るとはいえ、それは華や草を見ていながら、同時に法の事実を見ていることに他ならないのである。そして、それは法の有無を問うのではなく、あくまでもあり方を問うているのだ。有無を問うても、それは戯論に堕す。
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上堂に、云く。
人人具足なり、箇箇円成なり。甚と為てか法堂上、草深きこと一丈なる。這箇の消息を会せんと要すや。
良久して云く、華は愛惜に依りて落ち、草は棄嫌を逐って生ず。
『永平広録』巻1-51上堂
題名を見て、『正法眼蔵』「現成公案」巻を思い付かれた方も多いと思うが、実は、それ以外でも、道元禅師の語録に引用例がある。引用例と述べたが、元々は中国禅にて用いられていた語である。
問う、如何なるか是、和尚の家風。
師云く、華は愛惜に従りて落ち、草は棄嫌に逐って生ず。
『天聖広燈録』巻25・興元府牛頭山精禅師
ここでは、見ての通り、「和尚の家風」について聞かれた僧が、この語をもって答えている。ここでの意味は、諸法実相ということである。よって、家風としては、華を求めず、草を嫌わないということである。華とは悟り、草とは煩悩である。そのことを前提に、道元禅師の上堂語を見てみよう。
まず道元禅師は「人人具足なり、箇箇円成なり」と、『碧巌録』第99則から引用しながら、いかなる人であっても、法が円成している事実を示しているのである。これはつまり、本来の悟りを示している。しかし、一方で法の説かれる堂閣である法堂上には、草が一丈も生えている。これは『祖庭事苑』巻2に出る言葉だが、つまりは法が満ちていても、煩悩もまた満ちている事実を指している。煩悩即菩提である。
よって、道元禅師はこの事実をもって、「華は愛惜に従りて落ち、草は棄嫌を逐って生ず」と言われた。これは、まさに、華など求めなくても、既に我々に具わっているのだから、愛惜してはならないとし、草の茫々たる様もまた法の事実なのだから、嫌う必要は無いとしているのである。華や草という現象を中心に考えてしまうと、これに至ることは出来ない。そうではなく、「法」というところから見ていく必要がある。
或る意味、「現成公案」巻で引用されているのも、華や草のありさまに、諸法実相を見るとはいえ、それは華や草を見ていながら、同時に法の事実を見ていることに他ならないのである。そして、それは法の有無を問うのではなく、あくまでもあり方を問うているのだ。有無を問うても、それは戯論に堕す。
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