こんな記事を見た。
・権威の指輪は金メッキ 質素好む新法王、伝統破り(産経ニュース)
この中に、こんな一文があった。
指輪は「漁師の指輪」と呼ばれ、キリストの弟子の聖ペテロなどが描かれてきた。聖書によると、ペテロは漁師だったが、キリストから「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われて弟子入りした。
なるほど、いや、洋の東西を問わず、似たようなことがいわれるものだと思い、記事にする次第である。なお、拙僧の感覚だと、この類似性は偶然である。無理矢理同一文脈を持ってくる必要は無いと断言出来る。
あるひはむかしよりの賢人・聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに、古来、水中の風流なり。さらにすすみて、自己をつるあるべし。釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。
むかし徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみし、すなはち華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の、人を接するは、人にあふなり。
『正法眼蔵』「山水経」巻
まさに、船子徳誠和尚こそ、人を釣る漁師である。この時の「人」とは、仏道を得たる人である。既に、徳誠和尚は「水」に住む人である。水とは仏道であり、賢聖の住む場所である。水が仏道であるというのは、水はどこまでも広がるからである。いや、強いて言えば、広狭を絶しているためである。広狭を絶した水であるから、我々は世界の海や湖や川にあるような水を思い浮かべる必要はない。
つまり、正しく仏祖・賢聖である時、その人は水に住んでいる。水に住むとき、我々は、魚も人も釣ることが出来るし、同時に「道」を釣ることも出来る。しかも、道元禅師は更に、「自己をつる」といい「釣をつる」という。それは、仏祖にとっての行いが、常に合目的的であることをいう。釣りの他に目的が無い場合、それを「釣りをつる」という。だからこそ、「釣りにつらるる」ともいうが、それは、「釣」の目的である「道につらるる」ことでもある。「釣」「自己」「道」「水」は、一如である。
しかし、徳誠和尚は、【禅宗の戸塚ヨットスクール?】という記事で指摘したように、釣った相手は夾山善会和尚である。いや、実際に釣られたのは、仏祖である。仏祖が仏祖を釣ること、これが仏道である。だからこそ、船子徳誠禅師は夾山善会禅師を水に突き落としたのである。いや、これは、水に落としたのでは無い。仏道に落としたのである。仏道に落ちたのであれば、仏祖である。よって、釣られたのである。
このように宗乗では、「釣り」とは、特定の対象を釣ることを意味しない。ただ、仏道にあるや否やである。そして、仏道にあるか否かは、修証をかるや否や、という事である。修証の有無が問われるのでは無い。かるや否やである。この場合、「かり」というのは、常に一時的である。それを転ずるのに、我々の志と実修実証とが問われる。つまり、釣りに釣られるのは、我々の熱心なる実修実証だということである。
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・権威の指輪は金メッキ 質素好む新法王、伝統破り(産経ニュース)
この中に、こんな一文があった。
指輪は「漁師の指輪」と呼ばれ、キリストの弟子の聖ペテロなどが描かれてきた。聖書によると、ペテロは漁師だったが、キリストから「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われて弟子入りした。
なるほど、いや、洋の東西を問わず、似たようなことがいわれるものだと思い、記事にする次第である。なお、拙僧の感覚だと、この類似性は偶然である。無理矢理同一文脈を持ってくる必要は無いと断言出来る。
あるひはむかしよりの賢人・聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに、古来、水中の風流なり。さらにすすみて、自己をつるあるべし。釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。
むかし徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみし、すなはち華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の、人を接するは、人にあふなり。
『正法眼蔵』「山水経」巻
まさに、船子徳誠和尚こそ、人を釣る漁師である。この時の「人」とは、仏道を得たる人である。既に、徳誠和尚は「水」に住む人である。水とは仏道であり、賢聖の住む場所である。水が仏道であるというのは、水はどこまでも広がるからである。いや、強いて言えば、広狭を絶しているためである。広狭を絶した水であるから、我々は世界の海や湖や川にあるような水を思い浮かべる必要はない。
つまり、正しく仏祖・賢聖である時、その人は水に住んでいる。水に住むとき、我々は、魚も人も釣ることが出来るし、同時に「道」を釣ることも出来る。しかも、道元禅師は更に、「自己をつる」といい「釣をつる」という。それは、仏祖にとっての行いが、常に合目的的であることをいう。釣りの他に目的が無い場合、それを「釣りをつる」という。だからこそ、「釣りにつらるる」ともいうが、それは、「釣」の目的である「道につらるる」ことでもある。「釣」「自己」「道」「水」は、一如である。
しかし、徳誠和尚は、【禅宗の戸塚ヨットスクール?】という記事で指摘したように、釣った相手は夾山善会和尚である。いや、実際に釣られたのは、仏祖である。仏祖が仏祖を釣ること、これが仏道である。だからこそ、船子徳誠禅師は夾山善会禅師を水に突き落としたのである。いや、これは、水に落としたのでは無い。仏道に落としたのである。仏道に落ちたのであれば、仏祖である。よって、釣られたのである。
このように宗乗では、「釣り」とは、特定の対象を釣ることを意味しない。ただ、仏道にあるや否やである。そして、仏道にあるか否かは、修証をかるや否や、という事である。修証の有無が問われるのでは無い。かるや否やである。この場合、「かり」というのは、常に一時的である。それを転ずるのに、我々の志と実修実証とが問われる。つまり、釣りに釣られるのは、我々の熱心なる実修実証だということである。
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