江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が、『普勧坐禅儀』に関連して、以下の頌を詠んでおられるので、そこから坐禅の本義を学んでみたい。
普勧坐禅儀を開示する次いで、密雲維那の呈するを見て和す
七仏以前の事、是を仮に名づけて禅と云う。
全機、須く直証たるべし、無舌にして能く宣ぶるを解す。
格外の句、句に非ず、正中偏、偏ならず。
是を鶏足老に嘱して、鷲嶺に青蓮瞬く。
『永福面山和尚広録』巻11「詩偈」
「七仏以前の事」とあるが、つまりこれは、「無分別」と言い換えてしまって良い。時間的前後をいわれているのでは無く、我々自身の経験的な前後をいわれている。要するに、我々の眼前の世界そのものの現象、そのあるがままの事実を指しているのである。「七仏」とは、所謂「仏道を明らかにした存在」であるけれども、その「以前」ということは、七仏という、道理を明らかにした存在すらも出生してくる場所、それが「七仏以前の事」である。だが、ここに、何らかの造物主的存在がいると仮定することは出来ない。その「仮定」こそが、分別で染汚されている。
無分別であり、更に七仏が出生してくるのが、「七仏以前の事」である。しかし、面山禅師はそこを敢えて「禅」と名付けるという。七仏が明らかにしたのは仏道であるが、その仏道とは、「智慧」のことである。よって、「智慧の発現を促す『禅』」という「理解」も可能である。だが、この場合、「智慧」と「禅定」との関係は転倒されており、むしろ、「禅定」の方に価値が置かれている。
つまり、「智慧」には、「無分別の分別」というべき「体系」を含む。この「体系」は「八万四千の法門」に展開し、応病与薬の源泉となるが、だが、やはり「無分別」では無い。世俗的な凡夫の持つ「分別」では無いが、「無分別」とは言い切れない。よって、この原初の「無分別」をそれとして直証する必要がある。この直証が全機である。また、「格外の句」「偏ならざる正中偏」である。
この「無分別」とは、まさに西田幾多郎博士が『善の研究』で述べようとした「純粋経験」「直接経験」と同じである。そして、仏陀釈尊は、この経験をこそ摩訶迦葉(=鶏足老)に付属したのであり、その道理がまさに、霊鷲山にて拈ぜられた「華(=青蓮華)」として、得難い奇華なのである。我々も漫然と坐禅していただけでは、この面山禅師がいう「七仏以前の事」には至らない。まさに、「心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし」でなくてはならないし、その上で「作仏を図ること莫れ」でもなければならない。
面山禅師の偈は、そのような基本を確認させてくれるものだといえる。
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普勧坐禅儀を開示する次いで、密雲維那の呈するを見て和す
七仏以前の事、是を仮に名づけて禅と云う。
全機、須く直証たるべし、無舌にして能く宣ぶるを解す。
格外の句、句に非ず、正中偏、偏ならず。
是を鶏足老に嘱して、鷲嶺に青蓮瞬く。
『永福面山和尚広録』巻11「詩偈」
「七仏以前の事」とあるが、つまりこれは、「無分別」と言い換えてしまって良い。時間的前後をいわれているのでは無く、我々自身の経験的な前後をいわれている。要するに、我々の眼前の世界そのものの現象、そのあるがままの事実を指しているのである。「七仏」とは、所謂「仏道を明らかにした存在」であるけれども、その「以前」ということは、七仏という、道理を明らかにした存在すらも出生してくる場所、それが「七仏以前の事」である。だが、ここに、何らかの造物主的存在がいると仮定することは出来ない。その「仮定」こそが、分別で染汚されている。
無分別であり、更に七仏が出生してくるのが、「七仏以前の事」である。しかし、面山禅師はそこを敢えて「禅」と名付けるという。七仏が明らかにしたのは仏道であるが、その仏道とは、「智慧」のことである。よって、「智慧の発現を促す『禅』」という「理解」も可能である。だが、この場合、「智慧」と「禅定」との関係は転倒されており、むしろ、「禅定」の方に価値が置かれている。
つまり、「智慧」には、「無分別の分別」というべき「体系」を含む。この「体系」は「八万四千の法門」に展開し、応病与薬の源泉となるが、だが、やはり「無分別」では無い。世俗的な凡夫の持つ「分別」では無いが、「無分別」とは言い切れない。よって、この原初の「無分別」をそれとして直証する必要がある。この直証が全機である。また、「格外の句」「偏ならざる正中偏」である。
この「無分別」とは、まさに西田幾多郎博士が『善の研究』で述べようとした「純粋経験」「直接経験」と同じである。そして、仏陀釈尊は、この経験をこそ摩訶迦葉(=鶏足老)に付属したのであり、その道理がまさに、霊鷲山にて拈ぜられた「華(=青蓮華)」として、得難い奇華なのである。我々も漫然と坐禅していただけでは、この面山禅師がいう「七仏以前の事」には至らない。まさに、「心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし」でなくてはならないし、その上で「作仏を図ること莫れ」でもなければならない。
面山禅師の偈は、そのような基本を確認させてくれるものだといえる。
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