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「孤雲」について

ここでいう「孤雲」というのは、曹洞宗大本山永平寺二世・孤雲懐弉禅師の道号とされている。ところで、拙僧、先日の懐弉禅師忌に際して【今日は懐弉禅師忌(孤雲忌)平成22年度版】という記事を書いている時、ふと気付いてしまった。少なくとも、瑩山禅師が示されたであろう時代の文献には道号が載っていないということに。一例を示そう。

・第五十二祖、永平弉和尚、元和尚に参ず。一日請益の次で、一毫衆穴を穿つの因縁を聞き、即ち省悟す。晩間に礼拝し、問ふて曰く、一毫は問はず、如何なるか是れ衆穴と。元微笑して曰く、穿了也と。師礼拝す。
 師、諱は懐弉。俗姓は藤氏。謂ゆる九條大相国四代の孫秀通の孫なり。
    『伝光録』第52章
・祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。
    『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」

……号について何も書いていない。いや、勿論、以前【真歇清了と長蘆清了の話】という記事にも書いたように、一説では道元禅師は道号を使うことを避けていたという「口伝」もあるそうだから、それに合わせて、瑩山禅師も敢えて、先人の道業を讃歎するに号は付さなかったのかもしれないが、しかし、そんな単純な話ではなさそうである。懐弉禅師の伝記は、大体道元禅師の伝記にくっついて、同じ文献に載るのが普通だけれども、『三祖行業記(或いは、三大尊行状記)』には、道号の提示はない。ただ、何故か知らないが、江戸時代になると、『洞上諸祖伝』(1694年刊行)や『洞上聯灯録』(1742年刊行)で、こぞって「号は孤雲」的記述が見えるので、この頃には一般的だったものと思われる。しかし、不可解である。一体、この江戸期の灯史編集者は、何をもって号を決めたのであろうか?無論、一番理解しづらいのは、最初に同時代で最初に編まれた『日域曹洞列祖行業記』(1673年刊行)の作者、懶禅舜融である。懶禅は興聖寺に住持した人でもあり、江戸初期の学僧・万安英種の法嗣でもあるから、その辺から学んだ可能性があるが、それにしても不可解である。

一方で、義介禅師の道号とされる「徹通」は、普通に用いられていたようで、禅林寺本『瑩山清規』に見える先師徹通忌疏には、「今月十四日、恭しく先師本州大乗開山价公徹通大和尚の遠忌に遇う」とされているので、瑩山禅師も本師である義介禅師を、「徹通大和尚」と呼んでいたことが分かる。よって、義介禅師は道号に値する名を用いていたわけである。太祖自身、瑩山という道号を使っていて、道号を使うことに忌避感はなかったはずである。よって、懐弉禅師にそれが見えないというのは、瑩山禅師の言葉そのものが、懐弉禅師の道号の不在を証明するように思うのだ。

なお、このことにより、拙僧が以前から持っていた1つの仮説の立証が、かなり苦しくなる。それは以下の一節である。

巣雲 懐昭等
   拝賀   
    『正法眼蔵』「安居」巻

これは、道元禅師が拝賀の牓の書式を示したものであるが、その一行目に件の「巣雲懐昭」という名前が見える。これは、道元禅師が懐弉禅師の名前である「孤雲懐弉」をもじって使われたように思っていたのだ。ただ、もし道号が無かったとすると、これは別の人の名前を2人書いたか、完全に道元禅師の創作という可能性も残ってしまうのだ。

ところで、「孤雲」という名称については、古写本『建撕記』に以下のような一節が見える。

○同(寛元二年九月)七日、宇治の興聖寺より木犀樹来る。義準上坐送り到る。而今孤雲の前栽と云云。

ここには、『建撕記』が編まれたであろう15世紀には、永平寺寺内に、「孤雲(閣?堂?塔頭?)」と呼ばれる建物があり、そこに、宇治興聖寺から贈られてきた「木犀」の樹を植えるというのである。ここからは、庭に面した建物があり、それが孤雲と読まれた可能性があるということである。無論、これが仮説に過ぎないのは、懐弉禅師は自らの埋葬の方法について、弟子達に遺言して亡くなった。しかも、遺骨は道元禅師の傍らに置くように訴えた。よって、この「孤雲」という建物とおぼしき名称と、懐弉禅師とが果たして一致するものか?よく分からない。

この不明さを指摘する時、合わせて道元禅師をお祀りした「承陽庵(後の承陽殿)」にも気を配らねばならない。これがもし道元禅師をお祀りするのなら、この「承陽」という名称について、道元禅師の「道号」であったと指摘せざるを得なくなる(現在は、大師号に用いられている)。「孤雲」が懐弉禅師なら、「承陽」は道元禅師、そう考えるのは自然である。しかし、もし「承陽」が道元禅師の道号と関係ないのなら、懐弉禅師と「孤雲」との関係もないのかもしれない。

後、見ておきたいのは、大乗寺に伝えられている『大乗聯芳志』である。同著は金沢大乗寺の歴住に関する記載だけれども、江戸時代中期の三洲白龍(1669〜1760)が重編したものとされる。しかし、同著の原型はかなり遡るともされているのだが、これには道号の記載がある。

開山徹通義价和尚。越前足羽郷の人。大将軍利仁藤公の後なり。業を、波著寺の懐鑑に受け、法を孤雲弉に嗣ぐ。

しかし、原型は遡るにしても、この記載は微妙である。江戸期に付加された可能性もある。その証拠に、同著には以下の記載もある。

二代瑩山紹瑾和尚。越前多禰の人。業を永平弉に受け、法を徹通价に嗣ぐ。

こちらは、「永平弉」になっている。もしかすると、こちらの記載の方が古かったものの、義介禅師のところだけ直された可能性もある。

そして、今一つ見ておきたいのは、写本でのみ伝わる『学道用心十則』という、『学道用心集』の異本(内容は大同小異)があるが、この奥書には、「本に云く、寛元三乙巳歳二月八日、越州大仏寺南坊に於いて書写し畢る。 孤雲」というものがあり、寛元3年(1245)頃に、「孤雲」と名乗る人がいた可能性を提示するが、逆に言えばこの文書こそが、江戸時代以降に記されたものかもしれないという推測を可能にしてしまう。

しかも、他の『正法眼蔵』の書写を始めとして懐弉禅師は、まず「孤雲」を自称されない。そのことは確認しておこう。そして、瑩山禅師が残された様々な言葉にも、「孤雲」は確認できない。とすれば、江戸時代に孤雲を道号と判断する契機は、永平寺にあったという「孤雲」という建物の名称を、そのまま用いてしまった江戸時代の灯史編集者の勘違いとも指摘できるのである。この記事は、とりあえず参照できる資料を使って書いたので、外に資料が出て来れば、その都度改める予定だが、達磨宗出身だから、道号を使っているだろうという思い込みでこれまで疑問に思ってこなかったことが、問題視できるというのは、まだまだ分からないことが沢山あることを意味する。参究は停止できないのである。

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