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財宝を離れる学道の用心

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道元禅師には、「貧の学道」と呼称されるお考えがある。

一日僧来つて学道之用心を問ふ次に示に云く、学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なほ財宝にまとはり、居所を貪り、眷属に交はれば、直饒その志ありと云へども障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云へども、なほ僧には及ばず。僧は一衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思はず、衣食を貪らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻4

いわゆる、「貧」であることが「学道の用心」であるという。それは何故か?

たいがい、世間一般に於ける人間の生き方は、多くの人々と知り合い、財宝なども多ければ良いという。まさに、名士といえよう。だが、そのことにより、却ってとらわれ、また人間関係の中で自らの居場所なども見失えば、徹底して学ばねばならない学仏道の妨げになるという。

よって、道元禅師は「貧」を説かれる。それは、人間関係が希薄で、財産も持たないことである。これは、「学仏道」に於いて必要なことであり、世間一般に生きて、仏道修行者や寺院を外護して下さる方に、直接実践していただく必要は無い。かつては、何故かそれが理解されず、僧侶が実践すべきことまでも、世間一般の在家信者に勧めるような愚かな説法が行われたが、恥ずべきことである。出家は出家、在家は在家、各々目指すべき境涯も違えば、行うべき実践も違う。

この違いは、自ずとあって然るべきであって、これを無理矢理混同するから、差別なども起きる。要するに、貧であることを強要し、現在、様々な理由で不遇な状態にある人を、その抜け出す可能性までも無くしてしまうような発想だ。だが、もはや、そのような勘違いは捨て去るべきである。

道元禅師が何故「貧の学道」を説いたのか?それは、余計な煩いが無ければ、「一向に学道す」るからである。世間一般に於ける煩いを滅したところに、初めて、学仏道は成就するのである。

ところで、「貧の学道」だが、これは道元禅師のオリジナルの発想では無い。既に、中国の龍牙居遁という僧が用いていた発想を、道元禅師が採用されたのである。「貧の学道」についても勘違いがされ、曹洞宗に特有だという人がいるけれども、実際はそうではない。そもそも、宗風や宗旨・教義について、無理に特性を引っ張り出さなくても良いはずなのだ。同じ源流を持つ臨済宗と同じ面があっても良いし、通仏教という観点からは、諸宗派と共通でも良い。だが、曹洞宗には曹洞宗の成仏道メソッドがあって、それは大切にされるべきであろう。通仏教的なところと、オリジナルのところ、それが相俟って初めて、宗風は成り立つといえる。

「貧の学道」は、そのあわいに於いて、良い学びを促すのである。

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