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『正法眼蔵』「法性」巻に見る修行への動機

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以前、このブログでは、道元禅師が修行を続ける動機(=発心)の継続に、諸天善神に祈るという選択肢を用意していたことを【今日は天神・菅原道真公のご命日です】という記事で見てみました。もちろん、これは或る程度時代的な制約や、様々な信仰が前提にあるという条件が必要とされることですので、現代のような自然主義的・合理主義的世界観が世を謳歌している現状にあっては、余り顧みられないのかもしれません。

ところで、それ以外にも、このような祈りを修行継続の原動力に使うと、只管打坐に反するのではないか?と仰る方もいるかもしれません。そこで、「法性」という概念から、修行への動機をどのように起こしていくかを見ていきましょう。

もし生知にあらざれば、経巻・知識にあふといへども、法性をきくことえず、法性を証することえざるなり。大道は、如人飲水冷暖自知の道理にはあらざるなり。一切諸仏および一切菩薩・一切衆生は、みな生知のちからにて、一切法性の大道、あきらむるなり。経巻・知識にしたがひて法性の大道をあきらむるを、みづから法性をあきらむるとす。
    「法性」巻

古来より「生知」というのは「生まれながらに知る」と訳すべきだとされています。『正法眼蔵』「大悟」巻で示されている「四知」の一として考えると、若干異なっているように思いますが、しかし、「法性」巻の説相を見ると、我々自身に法性という、仏陀が明らかにされた普遍の道理が具わっているからこそ、法性を明らかに出来るのだ、という話になりそうです。なお、上記の一文にて分かるように、道元禅師がこの「生知」を持ち出して批判されたのは、大道を「如し人、水を飲めば、冷暖自から知る」だと勘違いしている者への警鐘です。「他は是れ吾に非ず」(『典座教訓』)とされる道元禅師の教えを拡大解釈し、修行というのもどこか、自分で勝手にやるべきだと思う人がいるかもしれません。

しかしながら、修行と、それが普遍の道理に連なるかどうかは、全く別のことを話しているのです。大道とは、「大」に見るように、無限の観念を帯びています。よって、その無限を、自分1人の判断で得られるはずはない、道元禅師はそう仰りたいわけです。いや、そもそもその判断自体の正しさに根拠が無いという「不在」を暴露しているのです。また、以下のような批判も前提していたことでしょう。

 某甲、そのかみ径山に掛錫するに、光仏照、そのときの粥飯頭なりき。
 上堂していはく、仏法禅道、かならずしも他人の言句をもとむべからず、ただ各自理会。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき。雲水兄弟也都不管なり、祇管与官客相見追尋するのみなり。
 仏照、ことに仏法の機関をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。仏法、もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。真箇是光仏照、不曾参禅也。
    『正法眼蔵』「行持(下)」巻

この「某甲」というのは、道元禅師の本師である天童如浄禅師のことです。如浄禅師は、仏照禅師拙菴徳光という臨済僧について批評しているのです。要するに、仏法や禅堂というのは、他人の言句によって得るのではなくて、「各自理会」だとしているのです。自分で判断し、自分で得なさいと。そして、修行僧相手の指導をすることもなく、ただ官吏などと会っているだけだったというのです。しかし、道元禅師は、仏法は各自理会ではなく、尋師訪道をして、自らを摩滅するほどに修行する「老古錐」の伝統を忘れるべきではない、としているわけです。

自ら自身で得たという感覚は保障されず、しかし我々自身に具わる普遍の道理としての法性に目覚めることが出来るというのは、それをそれとする経験があるのです。或る時「普遍に目覚めた」と知ることが出来るのです。道元禅師はそれを、「或従知識・或従経巻」せよといいます。しかし、それは法性によって導かれ、法性によってあきらめさせられるのです。つまり、我々には生まれながらに、普遍の道理に目覚めるように、その機能や動機がセットされているといえます。だからこそ、普遍に生きる修行も可能となるのです。これを端的に「本証の信」とはいうのです。

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