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浄土真宗で語られる「古仏」について

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明治時代以降、繰り返し道元禅師と親鸞聖人の教えについて、その比較や類似点などが指摘されてきたけれども、お二人の伝記や著作撰述年代などを考えていくと、おそらくお二人には直接的思想的関係は無いといって良い。もし、似ている箇所があったとしても、それは法然門下と接していた道元禅師(門人に正信房湛空などがいたという)が、やはり法然門下であった親鸞聖人と当然に似ただけであり、両者が直接に関わったということは無い、というのが拙僧の見立てである。

話を転じて、道元禅師は「古仏」という言葉を、しばしば用いられる。例えば、以下のような文脈だ。

向来の四十位の仏祖、ともにこれ古仏なりといへども、心あり、身あり、光明あり、国土あり、過去久矣あり、未曾過去あり。
    『正法眼蔵』「古仏心」巻

「古仏」の宗乗的把握は、同巻を参究すれば良いのだが、道元禅師は「釈迦牟尼仏」から「六祖慧能」にまで到る「四十位の仏祖」が皆、古仏だということを示されつつ、合わせて同巻では、祖師方がお互いに「古仏」と呼んだ例を挙げながら、優れた仏道修行を行う祖師を、「古仏」であるとしている。

そこで、たまたま浄土真宗系の文献を読んでいたら、こんな一節に出会った。

それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。
    存覚上人『浄土真要鈔』

類似した文脈は、同じく存覚上人『持名鈔』にも見え、更に、存覚上人の著作を学んでいる蓮如上人『御文章』にも引用例がある。内容としては、阿弥陀仏は三世の諸仏から、その名前が称えられ、念ぜられる覚体(覚れる法体)であるから、久遠の古来より既に仏道を成就した「古仏」であるという。しかし、そうであっても、敢えて自ら思惟し、修行して成道されたのは、まさに「果後の方便(悟った後の働き)」であるという。

その意味に於いては、浄土真宗では阿弥陀仏を報身とか、場合によっては法身としても捉えるようだけれども、仏として、既に成道していたという事実をもって、「古仏」としているのは明らかである。この点、道元禅師が「祖師」を顕彰する場合に用いる「古仏」とは明らかに意味が相違している。道元禅師の場合、「古」とは「古鏡」「古経」「古教照心」、そして「古仏」などと用いられるけれども、これは、普遍的道理を蔵している、その先験的性質をもって、「古」と表現しているのである。よって、時間的前後を伴う伝統的価値観に即していない。まさに、道理の有無のみが「古」の利用を分ける。

それからすれば、存覚上人の「古仏」は、「先験的」意味合いではなくて、時間を遡るだけ遡った、更にその前ということになり、どこまでも時間的問題として考えられていることになる。よって、同じ表記の「古仏」だが、意味合いは微妙に異なっている。繰り返すが、道元禅師は論理的な「先」としての「古」であり、存覚上人は時間的な「先」としての「古」である。とはいえ、両方とも、通常の認識ではよく分からないっていうくらい「先」ってことでしょ、という意見に対しては、拙僧、微妙な顔つきで、首肯するであろう。

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