臨済宗の至道無難禅師には、多くの仮名法語があるけれども、今日はその中から、一文を見ていきたい。
一、(今時の)仏法は釈迦如来の教えに違っている。
唯心浄土というのは、心の素直なる様子をいい、己身の弥陀は、身を直接に述べたものである。(しかし)三尊(弥陀・観音・勢至)による来迎で紫雲がたなびくなどと、方便の教えに迷ってしまう。
禅は、法論に気を立てて、妙法・阿字などへの疑念によって混乱してしまう。このようになってしまうのだから、情けないことである。
『自性記』、『至道無難禅師集』春秋社、88頁、拙僧ヘタレ訳
実際、至道無難禅師の言葉は、かなり簡略化されている文章なので、拙僧自身の受け取り方が間違っている可能性は否定しない。ただ、拙僧は以上のように受け取った。つまり、無難禅師は、「その当時の仏法のあり方」について批判的であって、その中でも、「浄土」「禅」について指摘している。そして、無難禅師の基準である「釈迦如来の教え」が提示されている。
まず、浄土教系に対する批判だが、釈迦如来の教えとしては、「唯心浄土」「己身弥陀」の立場が正しいという。おそらくは、覚如上人あたりが聞いたら怒り出しそうだが、禅的な立場ではそこが強調される。まさに、我に具わりたる仏心こそが浄土であり、更には我が身こそが阿弥陀如来そのものなのである。しかし、来迎などの奇跡を説く、方便の教えに迷い、その本質に到ろうとしないと看破しているのである。
それから、禅についてはこの時代、既に室中での問答なども積極的に行われていたようで、いわゆるの看話禅・公案禅という状況だったのだろうが、それでありながら、他の教宗系の教えや修行に迷ってしまう場合があったようで、それへの批判を行っているといえる。つまり、何か別に大きな基準があったといえる。
それは、この一文からは見えないし、もう少し後の時代の、盤珪永琢禅師の「不生禅」のような定式化が可能なわけでも無いが、無難禅師としては、修行を専らにして、本来無一物の仏心を悟ることを目指すべきだという教えであったことが、『自性記』を総合して理解出来る。面白い譬えとしては、修行底の人は「煩悩即菩提」だが、未修行の人は「菩提即煩悩」なのだという。同じことを意味しているように思うが、前者が内容で、後者が現実である。つまり、修行底の人は煩悩であっても菩提となる。しかし、未修行の人は菩提が煩悩になってしまっているのである。
微妙なところだが、注意を要する教えであると思った。ちょっとした勘違いが、大きな誤りに及ぶこともある。まさに、毫釐も差有れば、天地懸かに隔たるということなのだろう。
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唯心浄土というのは、心の素直なる様子をいい、己身の弥陀は、身を直接に述べたものである。(しかし)三尊(弥陀・観音・勢至)による来迎で紫雲がたなびくなどと、方便の教えに迷ってしまう。
禅は、法論に気を立てて、妙法・阿字などへの疑念によって混乱してしまう。このようになってしまうのだから、情けないことである。
『自性記』、『至道無難禅師集』春秋社、88頁、拙僧ヘタレ訳
実際、至道無難禅師の言葉は、かなり簡略化されている文章なので、拙僧自身の受け取り方が間違っている可能性は否定しない。ただ、拙僧は以上のように受け取った。つまり、無難禅師は、「その当時の仏法のあり方」について批判的であって、その中でも、「浄土」「禅」について指摘している。そして、無難禅師の基準である「釈迦如来の教え」が提示されている。
まず、浄土教系に対する批判だが、釈迦如来の教えとしては、「唯心浄土」「己身弥陀」の立場が正しいという。おそらくは、覚如上人あたりが聞いたら怒り出しそうだが、禅的な立場ではそこが強調される。まさに、我に具わりたる仏心こそが浄土であり、更には我が身こそが阿弥陀如来そのものなのである。しかし、来迎などの奇跡を説く、方便の教えに迷い、その本質に到ろうとしないと看破しているのである。
それから、禅についてはこの時代、既に室中での問答なども積極的に行われていたようで、いわゆるの看話禅・公案禅という状況だったのだろうが、それでありながら、他の教宗系の教えや修行に迷ってしまう場合があったようで、それへの批判を行っているといえる。つまり、何か別に大きな基準があったといえる。
それは、この一文からは見えないし、もう少し後の時代の、盤珪永琢禅師の「不生禅」のような定式化が可能なわけでも無いが、無難禅師としては、修行を専らにして、本来無一物の仏心を悟ることを目指すべきだという教えであったことが、『自性記』を総合して理解出来る。面白い譬えとしては、修行底の人は「煩悩即菩提」だが、未修行の人は「菩提即煩悩」なのだという。同じことを意味しているように思うが、前者が内容で、後者が現実である。つまり、修行底の人は煩悩であっても菩提となる。しかし、未修行の人は菩提が煩悩になってしまっているのである。
微妙なところだが、注意を要する教えであると思った。ちょっとした勘違いが、大きな誤りに及ぶこともある。まさに、毫釐も差有れば、天地懸かに隔たるということなのだろう。
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