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打牛と打車の話(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻から)

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先日、とある場所で、この『正法眼蔵』「坐禅箴」巻の話になった。拙僧も、改めて内容を確認しておきたいと思ったので、記事にした次第である。タイトルにした「打牛」と「打車」の話は以下の文脈である。

 南岳いはく、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。
 しばらく、車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか。水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を参究せんには、不行ありとも参すべし、不行なしとも参すべし、時なるべきがゆえに。若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛と、ひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、仏道に打車の法あることをしりぬ、参学の眼目なり。たとひ打車の法あることを学すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。打牛の法、たとひよのつねにありとも、仏道の打牛は、さらにたづね参学すべし。水牯牛を打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、尽界打なるべきか、尽心打なるべきか。打迸髄なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。
    「坐禅箴」巻

これは、中国禅宗六祖慧能の法嗣である南嶽懐譲禅師と、その法嗣である馬祖道一禅師との問答、かの有名な「南嶽磨甎話」の一部である。馬祖が、仏になるために坐禅している様子を、南嶽が「それは、甎を磨いて鏡にするようなものだ」と看破(なお、この文脈についても、道元禅師の解釈は独特だ)したものなのだが、その過程で、修行方針を正しくさせるため、この「牛車の話」が出てくるのである。

イメージしていただきたい。牛車に乗っていて、それが動かなくなったら、その御者は「車」を打つのが良いのか?「牛」を打つのが良いのか?ということから、通常なら、「牛」を打たせることを導き出し、そして修行を進ませる、ということになる。だが、道元禅師はそうではない。そもそも、「車若不行」のところで、文脈にかなりの荷重を掛けている。道元禅師の説示の中では、「若=もし」という過程を、極力排していく。この場合もそうだ。つまり、「車若不行」については、「車行・車不行」の実相を問う作業に展開している。「問う」といっても、「答え」を一義的に決めようとしているのではない。「問い」は、「答え」を決める前提ではなくて、「実相の一義性を破す」過程をいう。よって、「若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず」なのである。

その上で、「打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか」である。通常なら、「車を打つのが、即ち是か?牛を打つのが、即ち是か?」という二者択一を意味する文脈である。だが、既に、「車の行・不行」を一義的に決めないという「仏祖の実相」を導いている道元禅師は、ここでも「打車、即ち是。打牛、即ち是」と、これを疑問では無くて、「仏祖の実相」を導く肯定的表現に換えている。そして、この肯定的表現に換えたところから、「打牛」「打車」の相互関係が問題になるが、それは、観察者の視点から俯瞰するからこそ、初めて問題になるのであり、等しいとか等しくないとか、そういう問題ではない。

また、既に「車の行・不行」について無限定の位置に立っている以上、「進ませる」という合目的的文脈が成立しない。ここでのこり続けるのは、ただ「打」という行為のみである。そして、非合目的的な「打」は、その対象を限定しない。だからこそ、世間であれば、「車を進ませる」という合目的的文脈の上で「打牛」を当然と見なすが、「仏道」には「打車の法」がある。なお、これは非合目的的な行為であって、合目的的な「打牛」と同じでは無い。また、非合目的的な「打牛」も参究されなくてはならない。道元禅師が、「打牛の法、たとひよのつねにありとも、仏道の打牛は、さらにたづね参学すべし」というのは、その意味である。また、「対象」を限定しないところから、「水牯牛」「鉄牛」なども、その対象となる。「牛」といえば、万法そのものである。

「打」というのは、本来は「打つ」の意味だが、「行為を意味する助字」としても機能する(例:打坐)。よって、この時の「打」は、ただの「打つ」では無くて、「行為的存在」を意味する言葉になり得る。それが、最後の、「拳打拳あるべし、牛打牛あるべし」である。拳が牛を打つ、というのは合目的的文脈であるが、ここでは「拳が拳を打つ」「牛が牛を打つ」とある。しかし、これは「打つ」では無く、「拳」や「牛」が行為的存在としてあることを「打」としているのである。行為による、一連のポイエーシス的状況を、「打」とするのである。

だから、「仏祖打仏祖」でも良いし、「凡夫打凡夫」でも良い。「尽界打尽界」でも良いし、「坐禅打坐禅」でも良い。この辺は、まさに「審細に参究」される道処、漏れることなく「打」としての行為的存在である。結局、この一文とは、「打」という行為的存在を明示することを主眼としている文脈であり、そして、仏道に於いてはこの行為を、「修行」に還元していく。修行が行われるところの説示であったと会得すべきなのである。そして、南嶽が馬祖に示したのも、勤精進せよ、という説示に他ならないのである。

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