今日も全国的に暑いようですね。皆さま、どうぞ熱中症などにはご注意を。
さて、このような暑さ・寒さをめぐって、中国の禅僧は本気で問答を行っていました。その一端を見ていきたいと思います。
洞山道く、「何ぞ寒暑無き処に去かざる」。此れは是れ、偏中正。
僧云く、「如何なるか是れ寒暑無き処」。
山云く、「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は、闍黎を熱殺す」。此れは是れ正中偏。
正なりと雖も却って偏、偏なりと雖も却って円なり。『曹洞録』中に、備に子細を載す。若しくは是れ、臨済下ならば、許多の事無し、這般の公案は直下に便ち会せん。
『碧巌録』第43則・洞山寒暑廻避、本則評唱
ここでいう洞山とは、中国曹洞宗の開祖である洞山良价禅師のことであり、その洞山禅師には、「洞山寒暑廻避」という一則の公案が知られています。ここで挙げられているのはその一部ですが、この前に、「僧、洞山に問う、「寒暑到来せば、如何か廻避せん」」という質問があります。そして、それへの解答が洞山の「何ぞ寒暑無き処に去かざる」なのであります。その後、幾つか遣り取りがあり、最終的にこの一則は、「向上」の究極を知らしめようとしているのであり、その最たる答えが、「寒いときは徹底して自らを冷え込ませ、暑いときには徹底してうだっておれ」という話であります。
さて、その問答の中に、五位説の語句が導入されて解釈されています。
?洞山道く、「何ぞ寒暑無き処に去かざる」。此れは是れ、偏中正。
?山云く、「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は、闍黎を熱殺す」。此れは是れ正中偏。
?正なりと雖も却って偏、偏なりと雖も却って円なり。『曹洞録』中に、備に子細を載す。若しくは是れ、臨済下ならば、許多の事無し、這般の公案は直下に便ち会せん。
こうなります。そもそも、「偏中正」とは、「偏から正に向かう」ことを意味しています。確かに、寒暑という現実の姿(=偏)から、その無いところ(=正)に行かないのか?といっているわけですから、その通りであります。では、今度は「正中偏」は、「正から偏に向かう」ことを意味しているので、「寒殺」「熱殺」という「正」から、転じて闍黎の真のありように向かうことを意味しているといえましょう。
さて、これについて圜悟克勤禅師は、「正」だといっても、実は「偏」であり、「偏」だといっても、実は「円」であるとしています。これは、五位説が「兼中到」に窮まることを意味しており、それを一言で「円」だといっているのでしょう。我々も、「苑転」などの語句で表現することがあります。詳しいことは『曹洞録』にあるとしていますが、これは『曹山録』『洞山録』の『曹洞二師録』のことで、確かに、同語録の中には、五位説が明確に説かれています。
しかし、圜悟禅師は、このような余計なことは臨済宗には無く、「直下=ただち」に会得するとしています。いわば、向上に入るのに、極めて簡潔だということでしょう。なお、この一則の公案について、圜悟禅師はこうも述べています。
盤走珠、珠走盤。偏中正、正中偏。
羚羊角掛けて蹤跡無く、猟犬林を遶って空しく踧踖たり。
『圜悟仏果禅師語録』巻5・頌古(下)
盤の上を珠が走り、珠は盤を走りますが、これが偏中正・正中偏だとしています。つまり、洞山禅師の遣り取りが、まさにこのようなものだとしているのでしょう。先の『碧巌録』の通りです。ところが、それがさらに、「カモシカは角を樹に掛けて足跡が無く」、よって、それを追ってきた猟犬は、林を繞って、空しくおどおどとしている(=踧踖)、ということになるでしょうか。カモシカは洞山、猟犬は学人で、勢い込んで問答をしたけれど、洞山は独り向上に至り、その周囲を学人がウロウロしているということでしょう。
まぁ、間違っていると思いますけどね。五位説っていうのは、これ自体、正しく手ほどきを受けないと分からないです。しかも、この問答を学ぶことで、現在の暑さを何とかしようと思いましたが、すっかり迷い込んだ感じで、ますます暑くなりました・・・
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さて、このような暑さ・寒さをめぐって、中国の禅僧は本気で問答を行っていました。その一端を見ていきたいと思います。
洞山道く、「何ぞ寒暑無き処に去かざる」。此れは是れ、偏中正。
僧云く、「如何なるか是れ寒暑無き処」。
山云く、「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は、闍黎を熱殺す」。此れは是れ正中偏。
正なりと雖も却って偏、偏なりと雖も却って円なり。『曹洞録』中に、備に子細を載す。若しくは是れ、臨済下ならば、許多の事無し、這般の公案は直下に便ち会せん。
『碧巌録』第43則・洞山寒暑廻避、本則評唱
ここでいう洞山とは、中国曹洞宗の開祖である洞山良价禅師のことであり、その洞山禅師には、「洞山寒暑廻避」という一則の公案が知られています。ここで挙げられているのはその一部ですが、この前に、「僧、洞山に問う、「寒暑到来せば、如何か廻避せん」」という質問があります。そして、それへの解答が洞山の「何ぞ寒暑無き処に去かざる」なのであります。その後、幾つか遣り取りがあり、最終的にこの一則は、「向上」の究極を知らしめようとしているのであり、その最たる答えが、「寒いときは徹底して自らを冷え込ませ、暑いときには徹底してうだっておれ」という話であります。
さて、その問答の中に、五位説の語句が導入されて解釈されています。
?洞山道く、「何ぞ寒暑無き処に去かざる」。此れは是れ、偏中正。
?山云く、「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は、闍黎を熱殺す」。此れは是れ正中偏。
?正なりと雖も却って偏、偏なりと雖も却って円なり。『曹洞録』中に、備に子細を載す。若しくは是れ、臨済下ならば、許多の事無し、這般の公案は直下に便ち会せん。
こうなります。そもそも、「偏中正」とは、「偏から正に向かう」ことを意味しています。確かに、寒暑という現実の姿(=偏)から、その無いところ(=正)に行かないのか?といっているわけですから、その通りであります。では、今度は「正中偏」は、「正から偏に向かう」ことを意味しているので、「寒殺」「熱殺」という「正」から、転じて闍黎の真のありように向かうことを意味しているといえましょう。
さて、これについて圜悟克勤禅師は、「正」だといっても、実は「偏」であり、「偏」だといっても、実は「円」であるとしています。これは、五位説が「兼中到」に窮まることを意味しており、それを一言で「円」だといっているのでしょう。我々も、「苑転」などの語句で表現することがあります。詳しいことは『曹洞録』にあるとしていますが、これは『曹山録』『洞山録』の『曹洞二師録』のことで、確かに、同語録の中には、五位説が明確に説かれています。
しかし、圜悟禅師は、このような余計なことは臨済宗には無く、「直下=ただち」に会得するとしています。いわば、向上に入るのに、極めて簡潔だということでしょう。なお、この一則の公案について、圜悟禅師はこうも述べています。
盤走珠、珠走盤。偏中正、正中偏。
羚羊角掛けて蹤跡無く、猟犬林を遶って空しく踧踖たり。
『圜悟仏果禅師語録』巻5・頌古(下)
盤の上を珠が走り、珠は盤を走りますが、これが偏中正・正中偏だとしています。つまり、洞山禅師の遣り取りが、まさにこのようなものだとしているのでしょう。先の『碧巌録』の通りです。ところが、それがさらに、「カモシカは角を樹に掛けて足跡が無く」、よって、それを追ってきた猟犬は、林を繞って、空しくおどおどとしている(=踧踖)、ということになるでしょうか。カモシカは洞山、猟犬は学人で、勢い込んで問答をしたけれど、洞山は独り向上に至り、その周囲を学人がウロウロしているということでしょう。
まぁ、間違っていると思いますけどね。五位説っていうのは、これ自体、正しく手ほどきを受けないと分からないです。しかも、この問答を学ぶことで、現在の暑さを何とかしようと思いましたが、すっかり迷い込んだ感じで、ますます暑くなりました・・・
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