今日9月2日は、語呂合わせで「くじの日」だそうです。
今では、銀行などが執り行う「宝くじ」ですが、時代劇などを見ると「富くじ」などと称して、お寺や神社の境内で、派手な抽選会を行う様子が描かれます。それで、当たっただの、外れただのと、ドラマが展開されることがあります。今も昔も、転じがたきは人の心の煩悩であります。
ところで、江戸時代寺社が「富くじ」を興行したのは、仏閣神社の建物を再興するためだったとされています。最高・再建したいけれども、その原資が無い時に「富くじ」の興行元となり、実施したそうです。とはいえ、幕府などに上前ははねられていたそうですが・・・昔から、この辺は変わりません。今も、日本の税金が足りないから宗教法人に課税しろ、なんていう話がありますが、それをするくらいなら、赤字の企業に課税した方が、余程収入になることでしょう。宗教法人もそれと同じく、無収益扱いなのですから。
また、くじというのは、とても面白い仕組みをしています。一言でいえば、「買ってもなかなか当たらない、買わなくては絶対に当たらない」ということです。しかしこれは我々の修行の様相にも似ています。
ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。
『正法眼蔵』「説心説性」巻
これは、くじの話ではなくて、「弓矢」の鍛錬の話なんですけれども、構造的にはよく似ています。「難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし」の文脈は、「くじは買っても当たらない」の内容です。そして、「いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり」の文みゃうは、「買わなくては絶対に当たらない」の内容です。そして、我々は自分たちの仏道修行も同じようだと考えています。道元禅師は、先の文脈に続けて、このように説示されます。
行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることを、あきらめがたし。
同上
要するに、仏道を修行し始めて、その初心の段階、未だ鍛錬が行き届かずに、仏道自体を全て受け取ることが出来ないからといって、それを捨てて他の道に行っても、結局仏道は得られないのです。常に仏道の成就を願い、そして鍛錬を続けていくところに、始めて修証一等としての仏道が成り立つのです。
そこで、可能性がどれほどに低くても、わずかでも願いが叶う望みがある状況と、その望みが全く無い状況、見た目の確率的には余り変わらないように思えても、結果には明確な違いがあります。その点では、宝くじも修行も同じようなことです。修行しても、結果が出ないかもしれないと始めから諦め、眺めているだけでは、絶対に結果が出ることはないでしょう。ただし、果敢に身体ごと仏道に飛び込んで行う修行が、必ず後には願いを成就させてくれると信じて行う場合は、望んだ結果まで到達することが出来るのです。
今時には、1つのことを成就する際にも「バランス」とかいって、複数の事柄を同時的に進めようとする時もありますが、「バランス」は、どういう状況でも獲得できます。1つのことを続けていても、それが巧みな人は巧みです。「バランス」の善し悪しについては、「道」に如何に契っているかで変わってくると思います。
ということで、同じことは様々な場面で見ることが出来ます。
我々の仕事でも同じような様子かもしれません。始めから諦めてしまっては、その後に育っていく余力も奪ってしまいます。しかし、果敢に挑戦し、失敗も成功もともに我々の学びの糧となるとき、やっぱり挑戦してて良かったと、心底思えるものです。是非、眺めるだけ、批評するだけではなく、自ら行ってみて、その結果を丸ごと受け止めてみましょう。その結果は、成功しても失敗しても、大らかな、豊かな気持ちにさせてくれるはずなのです。
なお、この記事は、とある媒体に寄稿する予定でしたが、ボツになったので、内容を加増してブログの記事に転用した次第です。なお、拙ブログでは以前も似たような記事を書いていますので、アッサリした内容であることをご容赦下さい。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教12〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
今では、銀行などが執り行う「宝くじ」ですが、時代劇などを見ると「富くじ」などと称して、お寺や神社の境内で、派手な抽選会を行う様子が描かれます。それで、当たっただの、外れただのと、ドラマが展開されることがあります。今も昔も、転じがたきは人の心の煩悩であります。
ところで、江戸時代寺社が「富くじ」を興行したのは、仏閣神社の建物を再興するためだったとされています。最高・再建したいけれども、その原資が無い時に「富くじ」の興行元となり、実施したそうです。とはいえ、幕府などに上前ははねられていたそうですが・・・昔から、この辺は変わりません。今も、日本の税金が足りないから宗教法人に課税しろ、なんていう話がありますが、それをするくらいなら、赤字の企業に課税した方が、余程収入になることでしょう。宗教法人もそれと同じく、無収益扱いなのですから。
また、くじというのは、とても面白い仕組みをしています。一言でいえば、「買ってもなかなか当たらない、買わなくては絶対に当たらない」ということです。しかしこれは我々の修行の様相にも似ています。
ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。
『正法眼蔵』「説心説性」巻
これは、くじの話ではなくて、「弓矢」の鍛錬の話なんですけれども、構造的にはよく似ています。「難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし」の文脈は、「くじは買っても当たらない」の内容です。そして、「いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり」の文みゃうは、「買わなくては絶対に当たらない」の内容です。そして、我々は自分たちの仏道修行も同じようだと考えています。道元禅師は、先の文脈に続けて、このように説示されます。
行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることを、あきらめがたし。
同上
要するに、仏道を修行し始めて、その初心の段階、未だ鍛錬が行き届かずに、仏道自体を全て受け取ることが出来ないからといって、それを捨てて他の道に行っても、結局仏道は得られないのです。常に仏道の成就を願い、そして鍛錬を続けていくところに、始めて修証一等としての仏道が成り立つのです。
そこで、可能性がどれほどに低くても、わずかでも願いが叶う望みがある状況と、その望みが全く無い状況、見た目の確率的には余り変わらないように思えても、結果には明確な違いがあります。その点では、宝くじも修行も同じようなことです。修行しても、結果が出ないかもしれないと始めから諦め、眺めているだけでは、絶対に結果が出ることはないでしょう。ただし、果敢に身体ごと仏道に飛び込んで行う修行が、必ず後には願いを成就させてくれると信じて行う場合は、望んだ結果まで到達することが出来るのです。
今時には、1つのことを成就する際にも「バランス」とかいって、複数の事柄を同時的に進めようとする時もありますが、「バランス」は、どういう状況でも獲得できます。1つのことを続けていても、それが巧みな人は巧みです。「バランス」の善し悪しについては、「道」に如何に契っているかで変わってくると思います。
ということで、同じことは様々な場面で見ることが出来ます。
我々の仕事でも同じような様子かもしれません。始めから諦めてしまっては、その後に育っていく余力も奪ってしまいます。しかし、果敢に挑戦し、失敗も成功もともに我々の学びの糧となるとき、やっぱり挑戦してて良かったと、心底思えるものです。是非、眺めるだけ、批評するだけではなく、自ら行ってみて、その結果を丸ごと受け止めてみましょう。その結果は、成功しても失敗しても、大らかな、豊かな気持ちにさせてくれるはずなのです。
なお、この記事は、とある媒体に寄稿する予定でしたが、ボツになったので、内容を加増してブログの記事に転用した次第です。なお、拙ブログでは以前も似たような記事を書いていますので、アッサリした内容であることをご容赦下さい。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教12〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。