未だに、Wikipedia等を始めとして、幾つかのネット上の記述では、道元禅師の実父を「源通親(1202年死去)」であるとしたい場合が多いのか、通親の次男である源通具(1227年死去)については、「道元の兄弟」のように書かれる場合がある。だが、拙僧は道元禅師の実父は、「源通具」であると考えている。それは、まず「通親」説の最大の問題は、道元禅師の古伝に於いて、母の死(道元禅師8歳の時)については触れるのだが、「父の死(もし、通親であれば道元禅師3歳の時でなくてはならない)」については触れない。
なお、古伝の一つである古写本『建撕記』では、道元禅師が出家を願う場面に於いて、親戚筋の良顕法眼が、「親父・猶父が怒るのではないか?」(訳)と諭すが、ここで「親父」と出て来てしまうので、どうも、「父親」が健在であった印象を抱く。なお、通親を実父と見たい立場の人は、道元禅師が晩年に、「為育父源亜相上堂」を行ったことを喧伝して、「育父」とは、「育ての親」のことであって、実父では無い、等と批判する。
だが、やっぱり通具が実父なのであろうと思う。その上で、今回は面白いおとぎ話をしてみたい。立論の軸は、以下の通りである。
(1)道元禅師は藤原基房の猶子になっていたのだから、基房への上堂があるのでは?
(2)適当な年齢の「源亜相」が、やっぱり通具だけ?
まず(1)なのだが、瑩山禅師はこのように仰っている。
時に松殿の禅定閣は、関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり。此人、師を納て猶子とす。家の秘訣を授け、国の要事を教ゆ。
『伝光録』第五十一祖章
この「松殿の禅定閣」なのだが、明らかに「藤原基房(1145〜1231)」を指している。今でも、Wikipediaなどでは、面山瑞方師『訂補建撕記』の影響と、その影響下に於いて書かれた近代の諸伝記の影響からか、息子の師家(1172〜1238)を推定している場合もあるが、師家の評価として、「関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり」という評価は全く当てはまらない。基房は摂政・関白・太政大臣を全て務め、平家と対立して官職を逐われた後も、有職故実に於ける該博な知識を元に、朝廷に影響力を残したという。だが、師家は摂政・内大臣のみであり、また「王臣の師範」というべき評価を得ていない。よって、これは基房が正しい。
ところで、基房は道元禅師を「猶子(遺産相続権の無い養子のこと)」にしたという。だとすれば、「育父」を「育ての親」とする人がいるけれども、現代語としての「育ての親」という表現には、基房であっても当てはまってしまう。しかも、道元禅師が13歳の春に「木幡の山荘」を抜け出て比叡山に走ったとされるが、その「木幡の山荘」は基房の所有であったという。そうなると、少なくとも数年にわたり、その庇護を受け、教育を受けていたはずである。それからすれば、基房にだって、供養・追悼の上堂を行っても良いはずだ。だが、『永平広録』には見えない。よって、拙僧はこのことから、「育父」を、「実父」であると解釈すべきであると考えているのである。
ところで(2)であるが、(1)が吹っ飛ぶような類推をしてしまった。この時期清華家である村上源氏に於いて、「亜相=大納言」にまで登った人は少なくない。しかし、道元禅師は用語として「源亜相」を用いていることからすれば、その人にとって「最終官職」が、大納言であったことになる。そうなると、源通親の周辺では、次の人達がそれに当たる。
源通資(通親の弟)〜1205
源雅親(通資の子)1180〜1249(1250?)
源通具(通親の次男、堀川家)1171〜1227
源通方(通親の五男、中院家)1189〜1239
源通行(通親の六男)1202〜1270
このようになる。そこで、ここからは既に、源雅親と源通具の2人に限られることも理解できる。ところで、そうなると、建長元年(1249)12月5日とされる雅親死去の日付に道元禅師の追悼が間に合ったかどうかが議論の対象となる。そこで、道元禅師による「源亜相」への上堂実施日の検討をしてみたい。
為育父源亜相上堂・・・
『永平広録』巻5-363上堂
源亜相忌上堂・・・
『永平広録』巻7-524上堂
両方ともに「祖山本」からの引用であるが、この両方ともに「源亜相」のために行われたと考えられている。以前は、両者同一人物だと考えていた。だが、それは正しいのだろうか?そこで、実施時期なのだが、残念ながら、具体的な日付の推定は難しい。だが、1ヶ月ほどのズレを許容すれば、推定可能である。この場合は、前後に行われた上堂の様子から、類推するのが一般的である。
臘八上堂・・・巻5-360上堂
雲州大守応書写大蔵経安置当山之書到上堂・・・巻5-361上堂
大蔵経応書写于当山之由、太守悦書重到上堂・・・巻5-362上堂
為育父源亜相上堂・・・巻5-363上堂
・
・
涅槃会上堂・・・巻5-367上堂
このようになっている。すると、巻5で収録されている「育父源亜相上堂」は、12月8日以降、2月15日までの間に行われたものだと分かる。ところで、この臘八上堂は建長元年(1249)12月8日実施である。また、涅槃会は翌2年(1250)2月15日であるとされる。そうなると、この最初の日付は、源雅親死去よりも後となり、間に合ってしまう。ついでに、後者の日付も見ておきたい。
中秋上堂・・・巻7-521上堂
・
上堂、今朝九月初一・・・巻7-523上堂
源亜相忌上堂・・・巻7-524上堂
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・
開炉上堂・・・巻7-528上堂
こちらの場合は、建長4年(1252)9月1日以降、10月1日(開炉)までに間に行われたことが推定され、だとすれば「源亜相忌」については、9月前半の実施であったことが分かる。
さて、そうなると非常に悩ましい結果となる。まず、1227年に死去した通具については、当然に両方ともに間に合い、また、巻7の上堂については、日付的にも通具と見た方が良い。何故ならば、通具は1227年9月2日に死去したとされているためである。ちょうど合う。だが、前者の巻5については、通具を「育父」と見る必然性が無く、むしろ雅親に関係があると見た方が自然である。
これ以降は、余りに大胆すぎるので、仮説として考えていただきたいのだが、拙僧自身これまで、この2回の「源亜相」上堂については、同じ人を追悼の対象にしていると考えていた。だが、ここまで日付が違うと別の考えを抱く。それは、両者は実は、別の人を相手にしていたのでは無いか?ということである。
そこで、こう考えてみた。文章のスタイルで結論を述べてみたい。
道元禅師の実父は源通具であった。よって、1252年9月初旬に「源亜相忌上堂」を行い、正しく「忌日」に供養の上堂をされたのであろう。また、その時には「父母の恩に報ずるは、乃ち世尊の勝躅なり」と述べた。よって、この「源亜相」は、文面を普通に捉えて「父母の1人(もちろん父親)」だったのだろう。ところが、別の「為育父源亜相上堂」については、「忌」では無いことに着目したい。
つまり、この上堂は、道元禅師の「育父」であった「源亜相」に対して行われたのでは無かろうか。それも、もしかすると、生存の延長を願ってのものだった可能性もある。実際には、建長元年12月始めに亡くなったとされる雅親だが、その連絡が到達せず、しかし危篤の知らせが入ったため、祈願の上堂を行った。実は、この上堂は、内容が全くもって、「忌日」「追悼」的では無いことに、拙僧は以前から疑問を抱いていた。また、こうなると、波多野義重による『大蔵経』寄進も、この「源亜相」のための物だった可能性も出て来る。
しかし、祈り虚しく亡くなってしまった。或いは、亡くなって、四十九日(三十五日か?平安時代には既に七七日供養は実施)くらいで、上堂を行った可能性もあるとは付言しておく。そうなると、義重の行動は、供養のためであった可能性もある。
その後、父母に対して改めて祈りを捧げる必要を感じた道元禅師(理由は、『観無量寿経』「三福」である可能性がある)は、年月を改めて、実父である通具相手に供養の上堂を捧げ、それが巻7に残された、という話である。まぁ、今の段階では、類推に類推を重ねたただの遊び程度の文章だが、以上、発表してみる。
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なお、古伝の一つである古写本『建撕記』では、道元禅師が出家を願う場面に於いて、親戚筋の良顕法眼が、「親父・猶父が怒るのではないか?」(訳)と諭すが、ここで「親父」と出て来てしまうので、どうも、「父親」が健在であった印象を抱く。なお、通親を実父と見たい立場の人は、道元禅師が晩年に、「為育父源亜相上堂」を行ったことを喧伝して、「育父」とは、「育ての親」のことであって、実父では無い、等と批判する。
だが、やっぱり通具が実父なのであろうと思う。その上で、今回は面白いおとぎ話をしてみたい。立論の軸は、以下の通りである。
(1)道元禅師は藤原基房の猶子になっていたのだから、基房への上堂があるのでは?
(2)適当な年齢の「源亜相」が、やっぱり通具だけ?
まず(1)なのだが、瑩山禅師はこのように仰っている。
時に松殿の禅定閣は、関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり。此人、師を納て猶子とす。家の秘訣を授け、国の要事を教ゆ。
『伝光録』第五十一祖章
この「松殿の禅定閣」なのだが、明らかに「藤原基房(1145〜1231)」を指している。今でも、Wikipediaなどでは、面山瑞方師『訂補建撕記』の影響と、その影響下に於いて書かれた近代の諸伝記の影響からか、息子の師家(1172〜1238)を推定している場合もあるが、師家の評価として、「関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり」という評価は全く当てはまらない。基房は摂政・関白・太政大臣を全て務め、平家と対立して官職を逐われた後も、有職故実に於ける該博な知識を元に、朝廷に影響力を残したという。だが、師家は摂政・内大臣のみであり、また「王臣の師範」というべき評価を得ていない。よって、これは基房が正しい。
ところで、基房は道元禅師を「猶子(遺産相続権の無い養子のこと)」にしたという。だとすれば、「育父」を「育ての親」とする人がいるけれども、現代語としての「育ての親」という表現には、基房であっても当てはまってしまう。しかも、道元禅師が13歳の春に「木幡の山荘」を抜け出て比叡山に走ったとされるが、その「木幡の山荘」は基房の所有であったという。そうなると、少なくとも数年にわたり、その庇護を受け、教育を受けていたはずである。それからすれば、基房にだって、供養・追悼の上堂を行っても良いはずだ。だが、『永平広録』には見えない。よって、拙僧はこのことから、「育父」を、「実父」であると解釈すべきであると考えているのである。
ところで(2)であるが、(1)が吹っ飛ぶような類推をしてしまった。この時期清華家である村上源氏に於いて、「亜相=大納言」にまで登った人は少なくない。しかし、道元禅師は用語として「源亜相」を用いていることからすれば、その人にとって「最終官職」が、大納言であったことになる。そうなると、源通親の周辺では、次の人達がそれに当たる。
源通資(通親の弟)〜1205
源雅親(通資の子)1180〜1249(1250?)
源通具(通親の次男、堀川家)1171〜1227
源通方(通親の五男、中院家)1189〜1239
源通行(通親の六男)1202〜1270
このようになる。そこで、ここからは既に、源雅親と源通具の2人に限られることも理解できる。ところで、そうなると、建長元年(1249)12月5日とされる雅親死去の日付に道元禅師の追悼が間に合ったかどうかが議論の対象となる。そこで、道元禅師による「源亜相」への上堂実施日の検討をしてみたい。
為育父源亜相上堂・・・
『永平広録』巻5-363上堂
源亜相忌上堂・・・
『永平広録』巻7-524上堂
両方ともに「祖山本」からの引用であるが、この両方ともに「源亜相」のために行われたと考えられている。以前は、両者同一人物だと考えていた。だが、それは正しいのだろうか?そこで、実施時期なのだが、残念ながら、具体的な日付の推定は難しい。だが、1ヶ月ほどのズレを許容すれば、推定可能である。この場合は、前後に行われた上堂の様子から、類推するのが一般的である。
臘八上堂・・・巻5-360上堂
雲州大守応書写大蔵経安置当山之書到上堂・・・巻5-361上堂
大蔵経応書写于当山之由、太守悦書重到上堂・・・巻5-362上堂
為育父源亜相上堂・・・巻5-363上堂
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涅槃会上堂・・・巻5-367上堂
このようになっている。すると、巻5で収録されている「育父源亜相上堂」は、12月8日以降、2月15日までの間に行われたものだと分かる。ところで、この臘八上堂は建長元年(1249)12月8日実施である。また、涅槃会は翌2年(1250)2月15日であるとされる。そうなると、この最初の日付は、源雅親死去よりも後となり、間に合ってしまう。ついでに、後者の日付も見ておきたい。
中秋上堂・・・巻7-521上堂
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上堂、今朝九月初一・・・巻7-523上堂
源亜相忌上堂・・・巻7-524上堂
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開炉上堂・・・巻7-528上堂
こちらの場合は、建長4年(1252)9月1日以降、10月1日(開炉)までに間に行われたことが推定され、だとすれば「源亜相忌」については、9月前半の実施であったことが分かる。
さて、そうなると非常に悩ましい結果となる。まず、1227年に死去した通具については、当然に両方ともに間に合い、また、巻7の上堂については、日付的にも通具と見た方が良い。何故ならば、通具は1227年9月2日に死去したとされているためである。ちょうど合う。だが、前者の巻5については、通具を「育父」と見る必然性が無く、むしろ雅親に関係があると見た方が自然である。
これ以降は、余りに大胆すぎるので、仮説として考えていただきたいのだが、拙僧自身これまで、この2回の「源亜相」上堂については、同じ人を追悼の対象にしていると考えていた。だが、ここまで日付が違うと別の考えを抱く。それは、両者は実は、別の人を相手にしていたのでは無いか?ということである。
そこで、こう考えてみた。文章のスタイルで結論を述べてみたい。
道元禅師の実父は源通具であった。よって、1252年9月初旬に「源亜相忌上堂」を行い、正しく「忌日」に供養の上堂をされたのであろう。また、その時には「父母の恩に報ずるは、乃ち世尊の勝躅なり」と述べた。よって、この「源亜相」は、文面を普通に捉えて「父母の1人(もちろん父親)」だったのだろう。ところが、別の「為育父源亜相上堂」については、「忌」では無いことに着目したい。
つまり、この上堂は、道元禅師の「育父」であった「源亜相」に対して行われたのでは無かろうか。それも、もしかすると、生存の延長を願ってのものだった可能性もある。実際には、建長元年12月始めに亡くなったとされる雅親だが、その連絡が到達せず、しかし危篤の知らせが入ったため、祈願の上堂を行った。実は、この上堂は、内容が全くもって、「忌日」「追悼」的では無いことに、拙僧は以前から疑問を抱いていた。また、こうなると、波多野義重による『大蔵経』寄進も、この「源亜相」のための物だった可能性も出て来る。
しかし、祈り虚しく亡くなってしまった。或いは、亡くなって、四十九日(三十五日か?平安時代には既に七七日供養は実施)くらいで、上堂を行った可能性もあるとは付言しておく。そうなると、義重の行動は、供養のためであった可能性もある。
その後、父母に対して改めて祈りを捧げる必要を感じた道元禅師(理由は、『観無量寿経』「三福」である可能性がある)は、年月を改めて、実父である通具相手に供養の上堂を捧げ、それが巻7に残された、という話である。まぁ、今の段階では、類推に類推を重ねたただの遊び程度の文章だが、以上、発表してみる。
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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗10〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。