拙僧つらつら鑑みるに、道元禅師の語録である『永平広録』第一巻「興聖寺語録」は、確かにその編集方法はやや雑であるかもしれない。しかし、だからこそ、かえって活き活きとした道元禅師の説法を見るような思いを得ることもまた、事実である。それに、内容的にも、大仏寺以降に説かれたものより分かりやすいものも多い。今日はそんな上堂の1つを見ていきたい。
上堂に、云く。白雲は、是れ無心の物なりと雖も、到る処、還、旧山を恋うるが如し。
作麼生か是れ白雲。
作麼生か是れ旧山。
払柄を以て禅牀を撃ち、良久して云く、龍門に宿客無し、亀鶴は本来仙なり、と。
『永平広録』巻1-65上堂
白雲の無心なる様子というのは、これは雲水の遍参にも似て、徹底無心の行脚の如く、風に任せ、水に任せ、縁に任せて歩く様子を説かれている。我々自身の修行というのは、常に功利的、打算的な状況に堕する可能性を帯びている。なるほど、確かに道元禅師は正師に就くように繰り返し説かれている。ただ、弟子の側は、何故正師に就かねばならないのか?を、自らに鋭く問うべきである。例えば、優れた師に就くことで、自分の「名利心」を満足させたいのか?そのような者は、すぐに荷物をまとめて仏道の世界から去るべきである。また、師の側も、良く弟子の内心を見極めるべきである。以前、【修行に行く時にはカッパを忘れずに】という記事でも紹介したが、葉県帰省禅師の故実を忘れるべきではない。
さて、その白雲であるが、たとえどこに流れていようと、元々かかっていたかつての山(=旧山)を愛し続けるという。この意味とはどのようなことであろうか?ここに、「元いた山」という意味が響いてくる。「元」という言葉を敷衍していけば、「本来の面目」という語句自体が持つ「本来性」の意味へと繋がるわけである。或いは、『学道用心集』でいわれる「自己、本と、道中」という時の「本と、道中」というところへも繋がる。これを、従来の曹洞宗学では「本証」ともいってきたのであり、或いは、「人人分上ゆたかにそなわ」れるところの、「法」ということにもなるのである。
それでは、我々はこの「旧山」や「本来の面目」に「帰る」という表現は正しいのであろうか?その理解の鍵は、道元禅師の偈にある。そして、偈を見る限り、そんな単純な理解でもないと知る。まず、「龍門に宿客無し」というのは、「龍門」というのは、鯉などが滝登りして、そしてくぐると龍になるといわれる伝説の門であり、いわば禅宗では衆生が開悟して、仏に成ることを意味している。しかしながら、その龍門に留まるわけではない。これは、悟りにもとらわれず、仏にもとらわれないことを意味している。
同様に、「亀鶴は本来仙なり」というのも、亀や鶴というのは、本来的に宗教的価値を持っているということである。この者達は長生きである。それは、超自然的である。よって、この世界のあり方を超えて、普遍に通じるだけの道を歩む存在と言い換えて良い。それはつまり、本来的に旧山に居続けるモノといえる。よって、道元禅師は払子の柄をもって、自分が結跏趺坐している禅牀を撃って、その事実を述べたのである。いわば、「白雲」は本来の面目を求め続けて遍参するけれども、その事実の継続は、全て没蹤跡の行道であるため、旧山を恋うるだけであり、実際には留まらないという、逆のことを行うことで、旧山に親しむといいたいのである。我々の修行は、素直に結果に通じるモノだけではないといえる。
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上堂に、云く。白雲は、是れ無心の物なりと雖も、到る処、還、旧山を恋うるが如し。
作麼生か是れ白雲。
作麼生か是れ旧山。
払柄を以て禅牀を撃ち、良久して云く、龍門に宿客無し、亀鶴は本来仙なり、と。
『永平広録』巻1-65上堂
白雲の無心なる様子というのは、これは雲水の遍参にも似て、徹底無心の行脚の如く、風に任せ、水に任せ、縁に任せて歩く様子を説かれている。我々自身の修行というのは、常に功利的、打算的な状況に堕する可能性を帯びている。なるほど、確かに道元禅師は正師に就くように繰り返し説かれている。ただ、弟子の側は、何故正師に就かねばならないのか?を、自らに鋭く問うべきである。例えば、優れた師に就くことで、自分の「名利心」を満足させたいのか?そのような者は、すぐに荷物をまとめて仏道の世界から去るべきである。また、師の側も、良く弟子の内心を見極めるべきである。以前、【修行に行く時にはカッパを忘れずに】という記事でも紹介したが、葉県帰省禅師の故実を忘れるべきではない。
さて、その白雲であるが、たとえどこに流れていようと、元々かかっていたかつての山(=旧山)を愛し続けるという。この意味とはどのようなことであろうか?ここに、「元いた山」という意味が響いてくる。「元」という言葉を敷衍していけば、「本来の面目」という語句自体が持つ「本来性」の意味へと繋がるわけである。或いは、『学道用心集』でいわれる「自己、本と、道中」という時の「本と、道中」というところへも繋がる。これを、従来の曹洞宗学では「本証」ともいってきたのであり、或いは、「人人分上ゆたかにそなわ」れるところの、「法」ということにもなるのである。
それでは、我々はこの「旧山」や「本来の面目」に「帰る」という表現は正しいのであろうか?その理解の鍵は、道元禅師の偈にある。そして、偈を見る限り、そんな単純な理解でもないと知る。まず、「龍門に宿客無し」というのは、「龍門」というのは、鯉などが滝登りして、そしてくぐると龍になるといわれる伝説の門であり、いわば禅宗では衆生が開悟して、仏に成ることを意味している。しかしながら、その龍門に留まるわけではない。これは、悟りにもとらわれず、仏にもとらわれないことを意味している。
同様に、「亀鶴は本来仙なり」というのも、亀や鶴というのは、本来的に宗教的価値を持っているということである。この者達は長生きである。それは、超自然的である。よって、この世界のあり方を超えて、普遍に通じるだけの道を歩む存在と言い換えて良い。それはつまり、本来的に旧山に居続けるモノといえる。よって、道元禅師は払子の柄をもって、自分が結跏趺坐している禅牀を撃って、その事実を述べたのである。いわば、「白雲」は本来の面目を求め続けて遍参するけれども、その事実の継続は、全て没蹤跡の行道であるため、旧山を恋うるだけであり、実際には留まらないという、逆のことを行うことで、旧山に親しむといいたいのである。我々の修行は、素直に結果に通じるモノだけではないといえる。
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