今日から【月例の『正法眼蔵』勉強会】では、「仏向上事」巻が終わり次第「自証三昧」巻に入る。常に申し上げることだが、『正法眼蔵』を読むときにはまず、その巻の構造を把握し、そして、「力点」がどの辺にあるのかを見極めなくてはならない。無論、独力で行う必要は無い。この辺には優れた先達の成果が残っている。
洞明良瓉『校閲正法眼蔵序』という文献は、『正法眼蔵』全巻の文体解析を行い、その構造を6種類に分けたという力作だが、それで「自証三昧」巻は、「唯題意を説示するのみにして、他事を添糅せざるもの」であるとされる。つまり、全巻をもって、「自証三昧」という事象を説示したのみであるというのである。
これを頭に入れて読むと、確かに同巻は理解しやすいといえる。転ずれば、「自証三昧とは何か?」という疑問を持ち続けて読めば良いということである。この「何か?」ということを明かすのに、一つは語義の定義的問題がある。一つはその宗乗的宣揚がある。そして、その両方を上手く理解できる文章もある。同巻に於いては、「自証三昧」の意義は冒頭の「示衆(敢えて、『碧巌録』風にいえば)」にて決している。
諸仏・七仏より、仏仏祖祖の正伝するところ、すなはち自証三昧なり。いはゆる或従知識・或従経巻なり、これはこれ仏祖の眼睛なり。
「自証三昧」巻冒頭
要するに、「自証三昧」というのは、諸仏・七仏というあらゆる仏に於いて、共通して用いられていることだといえる。つまりは、釈迦牟尼仏だけではないということだ。道元禅師は晩年、「仏によっては用いる真理が違うのではないか?」という可能性を呈している。例えば、以下の文脈ではどうか?
不落因果、たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果、たとひ現在釈迦仏のときは脱野狐身すとも、迦葉仏時、しかあらざる道理も現成すべきなり。
「大修行」巻
同じようなことは、祖師方にもいえ、馬祖道一が発した「即心是仏」は、インドでは「非心是仏」であったといい、その文脈が持つ内容の違いを微細に指摘する。しかし、ここで「自証三昧」については、そのような仏・祖師の人格を超えて、仏仏祖祖が正伝してきたという。よって、これは一仏だけに限らない、通誡の道理である。そこで、「自証三昧」という言葉の意味するところだが、冒頭であれば、「或従知識・或従経巻」であると示されている。「或いは知識(指導者)に従い、或いは経巻(教え)に従う」ということであり、道元禅師はこれを「仏祖の眼睛(肝心要の道理)」だとされている。
何故、ここでこのように「自証三昧」の説明が、「或従知識・或従経巻」なのだろうか?「自証」という言葉をそのまま読むと、「自ら証す」という風に理解できる。自分自身の力でもって、独力で独悟するイメージである。ところが、そこであえて、「或従」を用いることで、「他者(他物、要するに自己ならざる物)」の介在を前提にした概念であると、イメージを改変・拡大しているのである。
であるならば、仏祖が正伝してきた自証三昧に、他者(しかもこの場合は、教える−学ぶという非対称的関係を前提にしたそれ)が混入するのは何故なのか?実は、その問いに対する提唱こそが、本巻の主眼であって、特に道元禅師は臨済宗大慧派の大慧宗杲に対する批判を通して、その真意を明かされる。
繰り返しになるが、『正法眼蔵』各巻は、何を示そうとして編まれたものかを正しく把握して読めば、誤ることは少ない。そして、その論点は、本文を丹念に読むことと、その本文に対して適切にこちら側の問いを充てていくことで読解可能となる。いきなり初心者には難しいので、その辺は勉強会などで身に付けられると良いだろう。
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洞明良瓉『校閲正法眼蔵序』という文献は、『正法眼蔵』全巻の文体解析を行い、その構造を6種類に分けたという力作だが、それで「自証三昧」巻は、「唯題意を説示するのみにして、他事を添糅せざるもの」であるとされる。つまり、全巻をもって、「自証三昧」という事象を説示したのみであるというのである。
これを頭に入れて読むと、確かに同巻は理解しやすいといえる。転ずれば、「自証三昧とは何か?」という疑問を持ち続けて読めば良いということである。この「何か?」ということを明かすのに、一つは語義の定義的問題がある。一つはその宗乗的宣揚がある。そして、その両方を上手く理解できる文章もある。同巻に於いては、「自証三昧」の意義は冒頭の「示衆(敢えて、『碧巌録』風にいえば)」にて決している。
諸仏・七仏より、仏仏祖祖の正伝するところ、すなはち自証三昧なり。いはゆる或従知識・或従経巻なり、これはこれ仏祖の眼睛なり。
「自証三昧」巻冒頭
要するに、「自証三昧」というのは、諸仏・七仏というあらゆる仏に於いて、共通して用いられていることだといえる。つまりは、釈迦牟尼仏だけではないということだ。道元禅師は晩年、「仏によっては用いる真理が違うのではないか?」という可能性を呈している。例えば、以下の文脈ではどうか?
不落因果、たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果、たとひ現在釈迦仏のときは脱野狐身すとも、迦葉仏時、しかあらざる道理も現成すべきなり。
「大修行」巻
同じようなことは、祖師方にもいえ、馬祖道一が発した「即心是仏」は、インドでは「非心是仏」であったといい、その文脈が持つ内容の違いを微細に指摘する。しかし、ここで「自証三昧」については、そのような仏・祖師の人格を超えて、仏仏祖祖が正伝してきたという。よって、これは一仏だけに限らない、通誡の道理である。そこで、「自証三昧」という言葉の意味するところだが、冒頭であれば、「或従知識・或従経巻」であると示されている。「或いは知識(指導者)に従い、或いは経巻(教え)に従う」ということであり、道元禅師はこれを「仏祖の眼睛(肝心要の道理)」だとされている。
何故、ここでこのように「自証三昧」の説明が、「或従知識・或従経巻」なのだろうか?「自証」という言葉をそのまま読むと、「自ら証す」という風に理解できる。自分自身の力でもって、独力で独悟するイメージである。ところが、そこであえて、「或従」を用いることで、「他者(他物、要するに自己ならざる物)」の介在を前提にした概念であると、イメージを改変・拡大しているのである。
であるならば、仏祖が正伝してきた自証三昧に、他者(しかもこの場合は、教える−学ぶという非対称的関係を前提にしたそれ)が混入するのは何故なのか?実は、その問いに対する提唱こそが、本巻の主眼であって、特に道元禅師は臨済宗大慧派の大慧宗杲に対する批判を通して、その真意を明かされる。
繰り返しになるが、『正法眼蔵』各巻は、何を示そうとして編まれたものかを正しく把握して読めば、誤ることは少ない。そして、その論点は、本文を丹念に読むことと、その本文に対して適切にこちら側の問いを充てていくことで読解可能となる。いきなり初心者には難しいので、その辺は勉強会などで身に付けられると良いだろう。
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