道元禅師の言葉だとされる一文がある。
はきものをそろえる
はきものをそろえると 心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまってそろえて おいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心も
そろうでしょう
これなのだが、当然に「現代語訳」なのだろうし、だとすれば「出典」があるはずである。だが、その原意を類推してみても、該当する文脈は、およそ道元禅師に見出しがたいといえる。無論、これが、「禅的ではない」とまではいわない。禅に於いては、この辺にもきめ細やかな指摘があるためである。
常の露地往来に、他の履の斜をみて直すは、如法の行。忘れても他の履をふむは、非法なり。
面山瑞方(1683〜1769)禅師『僧堂清規』巻5「新到須知」
例えばこういう文脈などはどうだろうか。江戸時代の学僧である面山禅師は、他人の「履(靴のこと)」が曲がっているのを直すのは、「如法の行」であるとしている。一方で直さなかったり、曲がっている他人の靴を踏んだりするのは、非法であるという。では、この「如法」を通して、我々が得られるのは、一体何であるのか?その辺は次の文脈に見える。
上件の非法の禁制は、仏制にて新規ならぬと云うこころ。制は、「法禁也」と字注して、法に依りて非法を禁断する意なり。止は、その非をやむるなり。之れは、上の非法を指す詞なり。祖師の尊語かく悉くに解了して、尊意にたがわぬ様に、日用保護すれば、永平門下の一衲僧にて、祖師大寂定中の冥加あるゆえに、後来は福智円備し、宗風を盛大する大善知識なるべし。龍象、常に上件に順奉すべし。
同上
ここで面山禅師は、非法についてそれを止め、一方で祖師の教えを尽く理解し、その意に違わないようにすべきであるという。その結果、祖師の冥加(我々の意識上は知られぬ加護)を受け、後々に、福も智も円備し、宗風を盛り上げる大善知識になるといえる。つまり、これも結果的に、全ての人びとにとって尊崇すべき、偉大な祖師となり、その結果世が良くなるといえる。
このように、靴を直すことを含めた「如法」の行いこそが、我々の人間社会にとって、大いに有効であることが確認できたのである。その点では、先に挙げた「はきものをそろえる」と、それほど大きな意味の違いはないと言えるであろう。だからこそ、これを道元禅師に「仮託」することは止めて、素直に「禅の教えでは・・・」という風に用いるのが良いのである。何故、道元禅師に仮託してしまうかといえば、その方が「権威」を持つためであろう。だが、禅の言葉にそういう権威は不用である。良い言葉は良い、ただそれだけなのだから。
従来、拙ブログでは、類似した事例について、幾つか指摘させていただいたけれども、その傾向は今回の記事で述べたことと、そう違わない。つまりは、権威を背負うことによって、或る言葉をより良く使おうということになる。だが、繰り返しになるけれども、禅には権威は不要である。仏教そのものが、既に同様である。仏陀が何故、それまでの伝承などに依らない言葉を説いたのか?それを能く考えてみるべきなのである。
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はきものをそろえる
はきものをそろえると 心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまってそろえて おいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心も
そろうでしょう
これなのだが、当然に「現代語訳」なのだろうし、だとすれば「出典」があるはずである。だが、その原意を類推してみても、該当する文脈は、およそ道元禅師に見出しがたいといえる。無論、これが、「禅的ではない」とまではいわない。禅に於いては、この辺にもきめ細やかな指摘があるためである。
常の露地往来に、他の履の斜をみて直すは、如法の行。忘れても他の履をふむは、非法なり。
面山瑞方(1683〜1769)禅師『僧堂清規』巻5「新到須知」
例えばこういう文脈などはどうだろうか。江戸時代の学僧である面山禅師は、他人の「履(靴のこと)」が曲がっているのを直すのは、「如法の行」であるとしている。一方で直さなかったり、曲がっている他人の靴を踏んだりするのは、非法であるという。では、この「如法」を通して、我々が得られるのは、一体何であるのか?その辺は次の文脈に見える。
上件の非法の禁制は、仏制にて新規ならぬと云うこころ。制は、「法禁也」と字注して、法に依りて非法を禁断する意なり。止は、その非をやむるなり。之れは、上の非法を指す詞なり。祖師の尊語かく悉くに解了して、尊意にたがわぬ様に、日用保護すれば、永平門下の一衲僧にて、祖師大寂定中の冥加あるゆえに、後来は福智円備し、宗風を盛大する大善知識なるべし。龍象、常に上件に順奉すべし。
同上
ここで面山禅師は、非法についてそれを止め、一方で祖師の教えを尽く理解し、その意に違わないようにすべきであるという。その結果、祖師の冥加(我々の意識上は知られぬ加護)を受け、後々に、福も智も円備し、宗風を盛り上げる大善知識になるといえる。つまり、これも結果的に、全ての人びとにとって尊崇すべき、偉大な祖師となり、その結果世が良くなるといえる。
このように、靴を直すことを含めた「如法」の行いこそが、我々の人間社会にとって、大いに有効であることが確認できたのである。その点では、先に挙げた「はきものをそろえる」と、それほど大きな意味の違いはないと言えるであろう。だからこそ、これを道元禅師に「仮託」することは止めて、素直に「禅の教えでは・・・」という風に用いるのが良いのである。何故、道元禅師に仮託してしまうかといえば、その方が「権威」を持つためであろう。だが、禅の言葉にそういう権威は不用である。良い言葉は良い、ただそれだけなのだから。
従来、拙ブログでは、類似した事例について、幾つか指摘させていただいたけれども、その傾向は今回の記事で述べたことと、そう違わない。つまりは、権威を背負うことによって、或る言葉をより良く使おうということになる。だが、繰り返しになるけれども、禅には権威は不要である。仏教そのものが、既に同様である。仏陀が何故、それまでの伝承などに依らない言葉を説いたのか?それを能く考えてみるべきなのである。
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