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須弥諸天世界 第四(富永仲基『出定後語』を学ぶ6)

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前回の連載から、富永仲基『出定後語』の議論は、仏教の各経典・論書に見える「各論」を論じるようになっています。そこで、今回は「仏教の世界観」が話題です。この世界観ですが、江戸時代に於いて見れば、後に仏教自体を批判する文脈で、過度に用いられるようになります。後でちょっと触れますが、儒者や国学者は須弥山説を始め、幾つかの仏教的な世界観について、非科学的な側面を批判します。意外なことですが、国学者・平田篤胤『霊の真柱』では、「遠西の人(西洋人のこと)」が作った精密な観測用具を用いて天体観測を行い、月や地球の直径などを証しているのです。これは、現在の数字にかなり近いもので、江戸時代の先端を行っている人達に見える科学的思考については、慎重に着目する必要があります。明治時代で、一気に変わったのではないのです。

時代的に富永は、1700年代中頃の人なので、平田のような指摘はありませんが、それが無くても、各仏教文献を横断して、その不備を指摘する様子には、深い科学性があったことが分かります。

さて、今回富永が採り上げた論点は、「須弥山」「地の深さ」「世界建立(宇宙の構造の意)」「天」「六道・五道」などであります。それで、本項の冒頭に、富永が指摘していること、それは彼の「批判」の源泉であるように思うので、確認したいと思います。

須弥楼山の説は、みな古来梵志の伝ふる所なり。迦文、特によりてもつてその道を説くは、その実、渾天の説を是となせるなり。しかるに後世の学者、いたづらにこれを張りて、もつて他を排するは、仏意を失せり。何となれば則ち、迦文の意はもとここにあらず。民を救ふの急なる、何の暇あつてその忽微を議せん。これいはゆる方便なり。
    『出定後語』「須弥諸天世界 第四」、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』25頁

富永は、須弥山説自体について、元々「梵志(婆羅門:インドの伝統的宗教者)」が伝えたものだとしています。そして、迦文(釈迦文仏:釈迦牟尼仏の異訳)がこれを取り入れたのは、「渾天の説」を認めたためだというのです。この「渾天の説」ですが、参照した文献の註記ですと、「天が地を包む球形宇宙観」だとされているのですが、ここに注意が必要です。これは、地球の球形を意味しているのではなく、あくまでも我々が住む世界が「地上・地下」に分かれ、それを「天」が包むという意味なのです。中国古来の世界観で、「渾天説」「蓋天説」などありましたが、一種の天動説だと理解できます。

なお、富永の指摘で確認したいことは、これらの世界観について、些末を論じることは意味が無いということです。何故ならば、釈尊の主眼は、「民を救ふの急なる」にあるのであって、「何の暇あつてその忽微を議せん。これいはゆる方便なり」という富永の見解は、現在の我々にとっても、大いに参照されるべきでしょう。特に、些末な議論になりやすい状況に於いては、それらを全て抛却し、「とにかく、全ての人びとに救われて欲しい」ということだけが、問題になるべきなのです。まさか、富永にこれを教えられるとは思いませんでした。彼への見方が変わります。しかも、次の文脈も注意が必要です。

しかるに儒氏もまたこれを知らずして曰く、「釈迦、須弥を作りて、その説合わず」と。ああ、迦文はあに儒固のごとくしからんや。仲尼、春秋を作るや、また日食の恒たるを知らず。これ何をもつてこれを解かん。それ日月の推歩は、天官星翁の掌る所、そのこれを知らざるに害なし。
    前掲同著、25〜26頁

これを読むと、そのような方便で説かれたに過ぎない釈尊の須弥山説に対し、それを真に受けて、「合理的ではない」と批判する儒者がいたようで、富永はそれを嘆いています。だいたい、仲尼(孔子のこと)は、『春秋』を示したとき、日食の意義について知らなかったのです。よって、儒者はその合理性などを主張する立場に無い、というのが富永の説です。そのような天体についての批判は、「天官星翁(天文学者)」に任せておけば良い、というのです。議論の本質を探ろうとする態度が見えます。

では、この後は、富永が指摘する仏教各文献に於ける論述の同異について検討します。

その地の深さを説くがごとき、増含は六十八千由旬となし、倶舎は八十万由旬となし、起世は六十万由旬となし、菩薩蔵には六十八百千由旬となし、楼炭は八十億由旬となし、光明は十六万八千由旬となす。これ何ぞ、その定説なき。〈中略〉所処名号、諸経論にまた一定なし。要するに、みな異部の異言、必ずしも牽合せざるも可なり。
    前掲同著、26頁

先に見た「渾天説」の「地」について論じた文章について、各経論ではその深さに大きな違いがあるというのです。然るに、「これ何ぞ、その定説なき」について富永はその理由を挙げようとしますが、単純に「それぞれが勝手に言って、符合させていない」というような指摘に留めています。それは、富永の立場からすれば、ほとんどの経論は、後の者が勝手に、それまでの説に「加上」して成立したとしており、その状況や時代も、一定の流れはありますが、当然に別の場所で、お互いが知らずに編集されれば、説が混乱するのは当然です。それを前提に、以下の論旨を眺めてみましょう。

また、その婆沙に、「有余部、阿須洛を立てて六趣となすは非なり。契経は、これ五趣と説くが故」と云ひ、大論に、「問ふ、経に五道ありと説く。いかんぞ、六道と言ふ。答ふ、仏去ること久遠、経法多く別異あり。ただ法華経に、六趣ありと説く。義意しかるべし」と云ふがごとき、要するにまた、みな異部の命ずる所、もとより一音の演出する所にあらざるなり。
    前掲同著、27〜28頁

これは、「五道」「六道」についての話です。「六道」で考えてみますと、「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」となります。しかし、ここでは『仏祖統記』巻31に見える『大毘婆沙論』の孫引きで、「修羅」を入れるのはおかしく、契経(仏典)では五道であったというのです。そして、龍樹『大智度論』ではその逆に、『法華経』に見えることを論拠に、「六趣」の義意を証すべきだとしています。『大毘婆沙論』は阿含部に依拠し、『大智度論』は大乗経典に依拠するその立場が明確だと思います。そして、富永は結局、「一音(仏陀一人で発した声音)」ではないとしているわけです。

では、この「一音」ではないということについて、富永は或る人の論説をテコにして、批判を深めています。

独り明代の志磐師、これを解くに三意をもつてして云く、「一は、仏、機に赴きて説く所不同なり。二は、結集部別不同なり。三は伝訳前後不同なり」と。ああ、これ何ぞ妄の甚だしきや。もし、仏、機に赴きてこれを説くとなさば、これ乃ち妄語、また何ぞ人に示すに毘尼をもつてせん。またもつて、結集部別不同なりとなさば、これ何ぞ、それ仏の所説たるにあらんや。経説もまた、何ぞ信を取るに足らん。何ぞその濫なるや。またもつて、伝訳前後不同とせんか。これ訳師もまた信じがたしとなせるなり。それ涅槃の滅度たる、あるいは円寂たる、これは則ち訳師の知解にありて、その不同あるや論なし。もし、その名物・度数、前後不同をもつてこれを解せば、これ何ぞ漠然たる。これ何ぞ、もつて説とするに足らん。要するに、みなこれを知らずして、しか云ふ。その実はしからず。
    前掲同著、28頁

ほとんど、総括的内容といえましょう。ここで富永が批判した志磐師というのは、中国の咸淳5年(1269)に『仏祖統紀』を著した南宋時代の天台宗の僧です。富永は「明代の」とはしていますが、1368年に成立した明時代の人である可能性は無いので、何かの勘違いであると思います。それはさておき、ここで志磐師によっていわれていることとは、仏陀の経説に於いて様々に違いがあるのは、「仏陀の説法が相手によって変化した」「仏陀の教えをまとめた部派によって変化した」「インドの仏典を翻訳した訳者によって変化した」(拙訳)ということです。そして、その一々を富永は、自説である「加上説」で理解すべきだという立場から、批判してみせました。なお、最初の批判は方便の否定ということになり、結構手厳しい内容です。何故ならば、人の素質によって教える内容を変えたのであれば、「妄語」になるとしているからです。富永自身、「方便」を理解していたと思いましたが・・・

また、他の2つは、仏陀の説ではなくて、後の者が色々と改変したことを示す内容ですが、富永はそれは当然といわんが如く、自説を重ねていることが分かります。

要するに、また首鼠の説、その不同あるに窘して、しか云ふ。これ実に古今の一大疑城にして、出定経典出でて、しかるのち始めて瞭然たり。
    前掲同著、28〜29頁

この辺が、富永の自信の表れです。これまで論じてきたように、仏説に見える様々な矛盾を解決するのに、様々な説が出されましたが、富永はそれらの一々を吟味しながらも「首鼠」、つまりは曖昧な説だと斥けています。そして、自らが著した「出定経典(出定後語のこと)」が出て、それらの曖昧な論点を明確化し、しかも、その理由も判明したと自負しているのです。「経典」という言葉に仏教徒が込める意味合いを知り尽くしている富永が、敢えて自説を「経典」と述べたところに、彼の自信を感じます。

世界の説はおよそ五、一に須弥世界は、これ梵志の初説、けだしその本なり。そのいはゆる小千世界、中千世界、三千大千世界、また三千世界の外、別に十世界ある者は、これみな以後加上する者なり。梵網にいはゆる蓮華蔵世界は、また一層加上の説、その広大は則ち華厳の世界海に至りて極まる。世界の説、その実は漠然として、もつて心理を語るに過ぎず。また何ぞ然否を知らん。故に曰く、世界は心に随ひて起こると、これなり。
    前掲同著、29頁

最後に、富永自身がこの一章を総括しています。要するに、世界の説は五段階だというのです。それは、「須弥世界⇒三千大千世界⇒十世界⇒蓮華蔵世界⇒世界海」と徐々に加上されたというのです。阿含部は「須弥世界」を基本とし、その後大乗に至って、「三千大千世界」などとなり、それから、「蓮華蔵世界」「世界海」などは、「心理を語るに過ぎず」としています。要するに、唯心論的世界観です。確かに、『華厳経』系では、「三界唯心」を説きますので、富永はそれがあって、世界像は益々混沌とし、今風にいえば、ファンタジーになっていったと考えたのです。

なお、日本の仏教に於いては、禅がやや、この華厳的世界観に因りつつ、「今ここ」を重視するようになったのは、こういう世俗の批判に対応するためであったと思われます。然し半面、死後の世界の定義づけに困難を来すなど、行き当たりばったりだった印象を深めます。よって、我々もまた、自分たちの世界観については、一度徹底して考え、それで自らの行う様々な活動について、その世界観的根拠を構築するべきでしょう。その時には別に、合理主義でなくても良いのです。

【参考資料】

・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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