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第三十三虚作無義戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒33)

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ここ数回の連載記事は、「悪心」をもって行われる様々な行いについて、禁止をするという戒が説かれています。以前から良くいわれるところで、仏教では「占い」をしてはならないとされます。これも、宗教者として共同体内に一種の権力者になる仏教者が、そのようなことを行う場合、しかも悪心を持って行うと、破壊的影響をもたらすためです。早速本文を見ていきましょう。

なんじ仏子、悪心を以ての故に、一切男女等の闘い、軍陣・兵将・劫賊等の闘いを観、また吹貝・鼓角・琴瑟・箏笛・箜篌・歌叫・伎楽の声を聴くことを得ざれ。摴蒲・圍碁・波羅賽戯・弾碁・六博・拍毬・擲石・投壺(ここまで博打の八事)、八道行城・爪鏡・蓍草・楊枝・鉢盂・髑髏(ここまで占いの六事)をもって、而も卜筮を作すことを得ざれ。盜賊の使命を作すことを得ざれ。一一作すことを得ざれ。若も故らに作す者は、軽垢罪を犯す。
    第三十三虚作無義戒

文体から考えると、まず、諍い・闘いの場面を観てはならない、という話が来ています。その次に、妙なる音楽を聴いてはならない、という話が来ています。3つ目に、博打や占いをしてはならないとしています。最後に、盗賊の使いをしてはならないということです。これに関連して、以下の文脈を見てみたいと思います。

伎楽・歌詠等の声を聴くべからず。
諸舞妓を見るべからず。
諸残害等を見るべからず。
諸卑醜の事〈謂く、男女の婬色等〉を見るべからず。
    『宝慶記』第5問答

或いは、「八斎戒」などにも、類似した文脈が見えます。結局これらは、一度見聞すると、繰り返して見たくなるという中毒性があるということなのでしょう。そして、この中毒性は、仏道修行の成就を遠ざけこそすれ、近付けはしないわけで、この『宝慶記』で説かれる如浄禅師の言葉も、「第一初心の弁道功夫の時」に気を付けるべきこととして説かれているのです。

さて、先の文脈ですが、総体としてどう理解すべきなのでしょうか?天台宗の実質的な開祖である天台智?の言葉を見てみたいと思います。

凡そ、運為する所、皆、正業に非ず。思想・覚観・真道を乱すことあるが故に制す。
    『菩薩戒義疏(下)』

ここで、「正業」という考え方が出ています。対義語は、「邪業」で、仏道に契わない行いということです。そして、正業については、思想・覚観・真道を乱すことなく保持することを意味しています。その保持の中では、余計な心的興奮を生み出す状態を避けなくてはならないのです。

さて、改めて「悪心」について考えてみます。天台智?はこのように述べています。

悪心とは見機を簡去す。
    同上

見機というのは、相手の様子をこちらから価値付けるということであり、それを除くことを簡去だとしています。「簡」は選ぶという意味ですから、悪心とは相手の様子を見ながら、足下を見るように手玉に取ることを意味しています。そして、智?は占いを行ってはならない理由について、「自利」を基準に批判しています。つまり、自らの利得のために行うことはあってはならないということです。先ほど見たような、「正業」はつまり、自分1人の問題ですが、「見機」の問題は、他者を含みます。他者への悪影響を与えるような所業は、菩薩行では無いことは勿論のことです。菩薩行ではないということことは、これはまさに波羅夷罪(菩薩の生命を失する)なのです。見た目は軽垢罪ですが、とても重い戒だといえます。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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