さて、今日は1月2日です。昨日の夜の夢が、いわゆる「初夢」だったわけですが、一富士・二鷹・三茄子・四扇・五煙草ということで、何かご覧になりましたか?というか、嫌煙家や、禁煙活動家が怒り出しそうな縁起物だ・・・
ということで、この日は個人的に「夢」に関する記事を書こうとか思っているわけですが、とりあえずこんな一節は如何でしょう?
このゆえに古仏いはく、我今為汝夢中説夢、三世諸仏也夢中説夢、六代祖師也夢中説夢。
この道、あきらめ学すべし。いはゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり、礼拝得髄、すなはち夢中説夢なり。
『正法眼蔵』「夢中説夢」巻
道元禅師は「古仏いはく」ということで、引用文だと示しているのですが、出典はどうも『大慧普覚禅師語録』巻20っぽい・・・だいぶ様相は違って「這裏に到って方に、三世諸仏夢を説き、六代祖師夢を説き、天下の老和尚夢を説き、即今、妙喜と如是老人と、又た夢中に夢を説くこと在りと信ず」とあるようなので、おそらくここでしょう。しかし、そうなると、道元禅師は嫌いなはずの大慧宗杲禅師も「古仏」と呼んでいたことになり、拙僧的には微妙・・・
さておき、道元禅師の一節を読み解いていきましょう。訓読すれば、「我れ今、汝の為に夢中説夢す、三世諸仏も也た夢中説夢す、六代祖師も也た夢中説夢す」となります。要するに、我−汝という自他関係に於いても夢中説夢が成立し、その時同時に、三世諸仏・六代祖師(これは、仏祖ということ)もまた、夢中説夢しているというのです。では、仏祖が行う夢中説夢とは何なのでしょうか?
これを、「この道、あきらめ学すべし」とありますので、先の引用文に於いて参究していくと次の通りです。
「いはゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり、礼拝得髄、すなはち夢中説夢なり」ということですが、これは、仏から祖師への仏法の伝授の場と、祖師と祖師による仏法伝授の場が「夢中説夢」だとしているわけですが、要するに、「伝授」ということが夢中説夢だというわけです。しかも、伝授といっても、何か個物があって、それを授受しているわけではありません。例えば、同巻では「証中見証なるがゆえに、夢中説夢なり」ともされますので、いわゆる既に仏法を証した中で、更に証されたる仏法を見ていくこと、それが「伝授」です。よって、後には曹洞宗にて「伝とは覚なり」(『達磨一心戒文』)という定義もされるほどですが、伝授というのは、自己がそれを証していくことなのです。
拈華微笑にせよ、礼拝得髄にせよ、それは祖師が自ら仏法を証していくことです。そして、そのことを「夢中説夢」というのです。そうなると「説」の意味が問われるところです。ここで「説」とは、仏陀が仏法を「説く」という意味だということを前提にしてみましょう。そうなると、そもそも、一切の存在が仏法そのものです。仏法が一切の事象である時、一切の事象が存在することが、仏法があるということになります。仏法があるということは、仏陀が説いたということですから、つまり「説」とは一切の事象が存在することを意味するのです。
この定義は、「説心説性」という時の「説」にも適用できます。
つまり、仏祖の夢中説夢とは、仏祖がこの世界に於いてあるという意味です。或いは、「我−汝」もまた、この世界に於いてあるということです。於いてあるということが、仏法が説かれることであり、そのことを言い換えると、次の通りになります。
此経、すなはち夢中説夢するに、阿耨菩提の諸仏を出興せしむ。菩提の諸仏、さらに此経をとく、さだまれる夢中説夢なり。
「夢中説夢」巻
此経とは、夢中説夢なのです。そして、その夢中説夢ということが、阿耨菩提の諸仏を出すということです。その出された諸仏がまた、此経を説くことで夢中説夢されていきます。夢中説夢と此経と諸仏とは、常に「道環」の関係にあるのです。その「道環」は、まさに「説」という能動的な所作によって成立します。よって、この辺が「本証妙修」の一展開として理解されねばならないところなのです。
初夢と全然関係ないな(笑)
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このゆえに古仏いはく、我今為汝夢中説夢、三世諸仏也夢中説夢、六代祖師也夢中説夢。
この道、あきらめ学すべし。いはゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり、礼拝得髄、すなはち夢中説夢なり。
『正法眼蔵』「夢中説夢」巻
道元禅師は「古仏いはく」ということで、引用文だと示しているのですが、出典はどうも『大慧普覚禅師語録』巻20っぽい・・・だいぶ様相は違って「這裏に到って方に、三世諸仏夢を説き、六代祖師夢を説き、天下の老和尚夢を説き、即今、妙喜と如是老人と、又た夢中に夢を説くこと在りと信ず」とあるようなので、おそらくここでしょう。しかし、そうなると、道元禅師は嫌いなはずの大慧宗杲禅師も「古仏」と呼んでいたことになり、拙僧的には微妙・・・
さておき、道元禅師の一節を読み解いていきましょう。訓読すれば、「我れ今、汝の為に夢中説夢す、三世諸仏も也た夢中説夢す、六代祖師も也た夢中説夢す」となります。要するに、我−汝という自他関係に於いても夢中説夢が成立し、その時同時に、三世諸仏・六代祖師(これは、仏祖ということ)もまた、夢中説夢しているというのです。では、仏祖が行う夢中説夢とは何なのでしょうか?
これを、「この道、あきらめ学すべし」とありますので、先の引用文に於いて参究していくと次の通りです。
「いはゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり、礼拝得髄、すなはち夢中説夢なり」ということですが、これは、仏から祖師への仏法の伝授の場と、祖師と祖師による仏法伝授の場が「夢中説夢」だとしているわけですが、要するに、「伝授」ということが夢中説夢だというわけです。しかも、伝授といっても、何か個物があって、それを授受しているわけではありません。例えば、同巻では「証中見証なるがゆえに、夢中説夢なり」ともされますので、いわゆる既に仏法を証した中で、更に証されたる仏法を見ていくこと、それが「伝授」です。よって、後には曹洞宗にて「伝とは覚なり」(『達磨一心戒文』)という定義もされるほどですが、伝授というのは、自己がそれを証していくことなのです。
拈華微笑にせよ、礼拝得髄にせよ、それは祖師が自ら仏法を証していくことです。そして、そのことを「夢中説夢」というのです。そうなると「説」の意味が問われるところです。ここで「説」とは、仏陀が仏法を「説く」という意味だということを前提にしてみましょう。そうなると、そもそも、一切の存在が仏法そのものです。仏法が一切の事象である時、一切の事象が存在することが、仏法があるということになります。仏法があるということは、仏陀が説いたということですから、つまり「説」とは一切の事象が存在することを意味するのです。
この定義は、「説心説性」という時の「説」にも適用できます。
つまり、仏祖の夢中説夢とは、仏祖がこの世界に於いてあるという意味です。或いは、「我−汝」もまた、この世界に於いてあるということです。於いてあるということが、仏法が説かれることであり、そのことを言い換えると、次の通りになります。
此経、すなはち夢中説夢するに、阿耨菩提の諸仏を出興せしむ。菩提の諸仏、さらに此経をとく、さだまれる夢中説夢なり。
「夢中説夢」巻
此経とは、夢中説夢なのです。そして、その夢中説夢ということが、阿耨菩提の諸仏を出すということです。その出された諸仏がまた、此経を説くことで夢中説夢されていきます。夢中説夢と此経と諸仏とは、常に「道環」の関係にあるのです。その「道環」は、まさに「説」という能動的な所作によって成立します。よって、この辺が「本証妙修」の一展開として理解されねばならないところなのです。
初夢と全然関係ないな(笑)
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