先だって、或るブログを覗いていたら、そのブログ主さんは、「道元禅師の「天地同根、万物一体」という言葉は………」なんていう事を書いていた。拙僧、「あれ?」とか思ったので調べてみたが、拙僧の手元にある資料では、道元禅師がこの後を直接的に使った形跡がない(汗)
ただ、似たような言葉は使っている。おそらく、意図するところは同じだ。
上堂。古に云く、「天地と我と同根、万物と我と同体」と。
『永平広録』巻2-148上堂
或る意味、先のブログ主さんはこれを短くして使ったのだろうか?それとも、何か別の人の記述でも孫引きしてしまったのだろうか。孫引きで思い出したのだが、先日、拙僧の法類さんから、或るご質問があって、あの松岡正剛さんが、道元禅師に「茶の効能」について書いた文章があるということなんだけど、道元禅師そんなこと仰ってる?というものであった。拙僧、一応、その分野の研究者の端くれもさせていただいていて、今の拙部屋の書棚には、『道元禅師全集』とかいう著作が、一角を占めるに到っているのだが、そこに、「茶の効能」なんてものはなかった。同じように、「天地同根、万物一体」もない。おそらく、茶については、栄西禅師の『喫茶養生記』辺りを勘違いしているのだろう。ただ、松岡氏が間違うとも思えないし、法類さんも間違えるような方ではないので、又聞きでもされたのかな?とか思っていたのだ。なお、拙僧はまだ、松岡氏の該当文脈を発見できていない。
そして、「天地同根」云々については、一応「典拠」を示しておこうと思う。この「天地同根、万物一体」については、中国曹洞宗の宏智正覚禅師の「頌古」であろう。後には『従容録』ともなるが、その前の段階で、既にこの語がある。なお、その頌古の本則では、ちゃんと肇法師の言葉として取り扱っている。この法師は、僧肇のことであり、老荘思想に造詣が深かったが、そういう知見を使って、『肇論』を著した。そこでは、先に道元禅師が「古に云く」とある文章の通りに書かれている。
つまり、ここで問題視したいのは、「引用」されていたものが、いつの間にか、「引用した本人の言葉」として流布してしまう問題点である。以前、この問題については、【霧の中の明恵上人】という記事も書いているのだが、『正法眼蔵随聞記』にあることで有名な「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」は、中国の『潙山警策』という文献からの引用であり、道元禅師も「古人云く」としてその点断っている。ところが、ネット上では、これが「道元禅師の言葉」として流布してしまっている感がある。
拙僧は、ここに大きな問題点を感じるのである。いや、無論「霧」の話はまだ、道元禅師の教えの中で、特に「親近善知識」「随身」を補完する譬えとして秀逸で、問題はない。ただ、先に挙げた「天地同根、万物一体」については、道元禅師の教えの中で、特に、思想的には、万物の実体化を助長しかねないものであり、確かに、道元禅師が類似した文脈を引用していたとしても、その「引用の意図」を正しく把握しないで、その発言者に同定した場合、全く誤解された教えが流布しかねないという問題が起きるのである。
では、先に引用した「上堂」で、道元禅師は如何なる意図を持って引用しているのだろうか。
払子を拈起して云く、遮箇は是れ大仏の払子、那箇は是れ箇の体を同じくし、那箇は是れ箇の根を同じくす。
このように、目の前に掲げる「払子」を示しながら、問題は「体の同」そして「根の同」を尋ねているといえる。明確に、同体・同根を説いているのではない。そのありようを尋ねているのである。よって、ここからは、単純に観念的な大地や万物が、全く同一であるというような「混沌」を示しているのではない。むしろ、目の前にある払子が、如何にして仏法に通じているかを説いているのである。その意味では、『正法眼蔵』「十方」巻にて、「拳頭一隻、只箇十方なり」というのと、文脈を同じくし、いわんとする内容もまた、同じであると分かるのである。
そして、更に肝心なところは、結局目の前にある事実に隙間を作り、その上で修道を進めることを促していることである。この時の修道とは、目の前にある事物が、そのまま普遍に直結している事実を見るべきだということである。この普遍とは、無常なる事実であると同時に、縁に依って起き、現成していることを直観することである。その意味で、道元禅師が引用したかったのは、「同根」「一体」という文脈である。これは、「一如」「一等」とも言い換えて良い。
したがって、或る意味、僧肇の言葉でなくても誰でも良かったのだ。或いは、冒頭に引用した語句でなくても良かったのだ。その道理からすれば、その程度の重みしかないところを、「道元禅師の言葉」としてしまうのは、不誠実である。そして、この辺は、要は、自分の都合に合わせ、それに見合うところだけを引用してしまう危険性を孕むということである。しかも、「偉大な人」の言葉を引用しつつ行われた場合、ただ、「自我の補強」になってしまう可能性がある。
本来、仏教とはそのような強固な自我の「不在」を説く教えであり、それを端的に「無我」というわけである。もし、自我の補強というような「不純な動機」によって参照されるようなことがあった場合、その無念さは計り知れないものとなる。この辺、我々、ブログを書く者は、最低限知って、守らねばならないリテラシーということになろう。
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ただ、似たような言葉は使っている。おそらく、意図するところは同じだ。
上堂。古に云く、「天地と我と同根、万物と我と同体」と。
『永平広録』巻2-148上堂
或る意味、先のブログ主さんはこれを短くして使ったのだろうか?それとも、何か別の人の記述でも孫引きしてしまったのだろうか。孫引きで思い出したのだが、先日、拙僧の法類さんから、或るご質問があって、あの松岡正剛さんが、道元禅師に「茶の効能」について書いた文章があるということなんだけど、道元禅師そんなこと仰ってる?というものであった。拙僧、一応、その分野の研究者の端くれもさせていただいていて、今の拙部屋の書棚には、『道元禅師全集』とかいう著作が、一角を占めるに到っているのだが、そこに、「茶の効能」なんてものはなかった。同じように、「天地同根、万物一体」もない。おそらく、茶については、栄西禅師の『喫茶養生記』辺りを勘違いしているのだろう。ただ、松岡氏が間違うとも思えないし、法類さんも間違えるような方ではないので、又聞きでもされたのかな?とか思っていたのだ。なお、拙僧はまだ、松岡氏の該当文脈を発見できていない。
そして、「天地同根」云々については、一応「典拠」を示しておこうと思う。この「天地同根、万物一体」については、中国曹洞宗の宏智正覚禅師の「頌古」であろう。後には『従容録』ともなるが、その前の段階で、既にこの語がある。なお、その頌古の本則では、ちゃんと肇法師の言葉として取り扱っている。この法師は、僧肇のことであり、老荘思想に造詣が深かったが、そういう知見を使って、『肇論』を著した。そこでは、先に道元禅師が「古に云く」とある文章の通りに書かれている。
つまり、ここで問題視したいのは、「引用」されていたものが、いつの間にか、「引用した本人の言葉」として流布してしまう問題点である。以前、この問題については、【霧の中の明恵上人】という記事も書いているのだが、『正法眼蔵随聞記』にあることで有名な「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」は、中国の『潙山警策』という文献からの引用であり、道元禅師も「古人云く」としてその点断っている。ところが、ネット上では、これが「道元禅師の言葉」として流布してしまっている感がある。
拙僧は、ここに大きな問題点を感じるのである。いや、無論「霧」の話はまだ、道元禅師の教えの中で、特に「親近善知識」「随身」を補完する譬えとして秀逸で、問題はない。ただ、先に挙げた「天地同根、万物一体」については、道元禅師の教えの中で、特に、思想的には、万物の実体化を助長しかねないものであり、確かに、道元禅師が類似した文脈を引用していたとしても、その「引用の意図」を正しく把握しないで、その発言者に同定した場合、全く誤解された教えが流布しかねないという問題が起きるのである。
では、先に引用した「上堂」で、道元禅師は如何なる意図を持って引用しているのだろうか。
払子を拈起して云く、遮箇は是れ大仏の払子、那箇は是れ箇の体を同じくし、那箇は是れ箇の根を同じくす。
このように、目の前に掲げる「払子」を示しながら、問題は「体の同」そして「根の同」を尋ねているといえる。明確に、同体・同根を説いているのではない。そのありようを尋ねているのである。よって、ここからは、単純に観念的な大地や万物が、全く同一であるというような「混沌」を示しているのではない。むしろ、目の前にある払子が、如何にして仏法に通じているかを説いているのである。その意味では、『正法眼蔵』「十方」巻にて、「拳頭一隻、只箇十方なり」というのと、文脈を同じくし、いわんとする内容もまた、同じであると分かるのである。
そして、更に肝心なところは、結局目の前にある事実に隙間を作り、その上で修道を進めることを促していることである。この時の修道とは、目の前にある事物が、そのまま普遍に直結している事実を見るべきだということである。この普遍とは、無常なる事実であると同時に、縁に依って起き、現成していることを直観することである。その意味で、道元禅師が引用したかったのは、「同根」「一体」という文脈である。これは、「一如」「一等」とも言い換えて良い。
したがって、或る意味、僧肇の言葉でなくても誰でも良かったのだ。或いは、冒頭に引用した語句でなくても良かったのだ。その道理からすれば、その程度の重みしかないところを、「道元禅師の言葉」としてしまうのは、不誠実である。そして、この辺は、要は、自分の都合に合わせ、それに見合うところだけを引用してしまう危険性を孕むということである。しかも、「偉大な人」の言葉を引用しつつ行われた場合、ただ、「自我の補強」になってしまう可能性がある。
本来、仏教とはそのような強固な自我の「不在」を説く教えであり、それを端的に「無我」というわけである。もし、自我の補強というような「不純な動機」によって参照されるようなことがあった場合、その無念さは計り知れないものとなる。この辺、我々、ブログを書く者は、最低限知って、守らねばならないリテラシーということになろう。
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